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2019年6月19日 (水)

圧巻の「ボルタンスキー」展

国立新美術館で始まった「クリスチャン・ボルタンスキー」展は、期待通りおもしろかった。あの天井の高い広い空間を生かし切った展示は圧巻だった。このフランスの作家の作品を初めてまとめて見たのは、1990年末の水戸芸術館。多くの顔の白黒写真と電球を組み合わせた祭壇や衣服を敷き詰めた空間の物質感と宗教性に驚いた。

それからは、第一回の越後妻有トリエンナーレで風にはためく多数の白い服の野外展示を見たり、瀬戸内国際芸術祭の豊島で心臓音を登録したり、新たな展開を感じた。

3年前の東京都庭園美術館での個展はさらに新境地だった。影の人形があちこちに見える展示はどこかで見たことがあったが、人の目が映る薄い大きな半透明のヴェールがいくつも垂れ下がり、救助用の金色のアルミ布が積み重なった衣服を覆っていた。あるいは無数の風船が置かれた自然の風景を裏表のスクリーンに写すだけ。

今回の新美の展示は、これらの90年代から2010年代の作品をたっぷり見せると共に、それ以前の個人的な作品や最新の展示を含むもので、「50年の軌跡ー待望の大回顧展」というコピー通り。

初期の映像作品は偏執狂的だ。男が血を吐いたり、女性の人形の顔を舐めたり。それからかつて使っていた長靴や椀の粘土による再現のような個人的なオブジェが並ぶ。その延長線上としての家族写真を並べたオブジェ。

80年代からは写真に電球を加えたインスタレーションが主流になる。個人の記憶から集団の歴史へ向かう。驚くべきはこれらの多くが東京都現代美術館や水戸芸術館や豊田市美術館や横浜美術館、広島市現代美術館など日本各地の美術館の所蔵品であること。これらが大きな空間に並ぶとある種のハーモニーが出てくるから不思議。

90年代以降はより映像と光と音を使うようになる。80年代の祭壇シリーズが人間集団に向かっていたのに比べて、より自然や世界に向き合う感じか。最近の多くの電球が床に並ぶ《黄昏》や黒い服が積み上げられた《ボタ山》や雪の風景に風鈴が並ぶ映像の《アミニタス(白)》など、人間と世界の関係を考えさせる。

とにかく展示室にいるだけで、不思議な快感がある。それは記憶なのか思索なのか癒しなのかわからないが、人間存在を救う何かがある。9月2日まで。もう1度行きたい。

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