『天気の子』の沈む東京
私は「ネタバレ」という言葉が嫌いだ。まず、映画はネタではない。いい映画は、あらすじが最後までわかっていてもおもしろい。映画評論はいつ頃から展開や結末を書かなくなったのだろうか。少なくとも昭和までは平気で書いていたのでは。
そんなことを考えたのは、新海誠監督『天気の子』を見たから。この映画を論じるのに、結末の東京の大異変に触れないわけにはいかない。私には、この場面が映画のなかで一番印象に残った。
手元にある新聞の映画評を見ると、「読売」の田中誠記者と「日経」の村山匡一郎氏はそのことに一切触れていない。「朝日」の大久保清朗氏だけが、「それにもまして唖然とするのは映画の最後に訪れる空前絶後の災厄である。究極のハッピーエンドでありながら究極のバッドエンドにも見える、この矛盾に満ちたアナーキーな結末をどう受け止めるべきか」と書いている。
映画は離島から家出した16歳の穂高が東京で「晴れ女」の陽菜と出会い、2人で生きて行こうとする物語だ。陽菜が持つ、小さな場所に少しの間晴れ間をもたらすことのできる才能を生かしてみんなを幸福にしてゆくが、それは長続きしない。
基本には、夏の間に2か月も雨が続く東京の異常気象がある。ついこの間まで雨が続いた東京のようだ。陽菜は人身御供になって東京全体に太陽をもたらすが、陽菜と別れたくない穂高はそれを阻止する。3年後、いったん離島に帰って東京に戻った穂高は、陽菜に再会する。東京は半分が海に沈んでいた。
「百年前の東京はこのくらい水に囲まれていた」という老人の言葉があった。実際に穂高や陽菜は半分沈んだ東京で明るく生きて行こうとする。大久保氏が「最後の光景がどこまでも晴れやかであることだ」と書くように。これは明治以降の日本の発展への痛烈な批判ではないか。
確かに終盤、穂高が陽菜を探して池袋あたりから代々木まで線路を走るシーンは感動的だし、音楽や歌も涙をそそる。しかし一番重要なのがその後にあるのは明らかだ。
それにしてもこの監督は新宿を中心に土地を微細に描く。穂高が世話になる編集事務所は私の自宅近くで、そっくりの通りが出てきたのは驚いた。ニューヨークの摩天楼のような時代錯誤の代々木のドコモタワーが何度も出てくるのは、結末を見ると皮肉にしか見えない。
それにしても穂高がなぜ16歳で東京に出てくるのか、陽菜がどうして晴れ間を作る能力を持つのか、肝心の設定が謎だらけである。たぶん監督は最後のシーンを見せたくて、それから逆算して作ったのではないか、そんな気さえした。
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