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2019年7月26日 (金)

もう一度見たボルタンスキー

森美術館の塩田千春展を見たら、もう一度ボルタンスキー展を見たくなって、国立新美術館に行った。塩田千春展があまりに審美的に完成されていたので、もっと雑多な感じのボルタンスキーを再度確認したいと思った。

今回思ったのは、ボルタンスキーが徹底して死のイメージを引きずっていること。展覧会の始まりにはDEPART(出発)と青の電光掲示で書かれ、出口にはARRIVEE(到着)と赤の電光掲示で書かれている。展覧会の始めと終わりだが、このように作品で示されると1人の人生のように思えてくる。

出口近くにあるのは日本語の「来世」という電光文字。そのまわりには墓石のような白い長方形が何本も立っている。その後の左側の《黄昏》という作品は床に置かれた無数の電球が毎日3個ずつ消えてゆくもの。右手には《黄金の海》で、金色の救助用ブランケットが敷かれた上を1個の電球が揺れ動く。

《黄金の海》の手前は敷き詰められた古着。これだけは水戸芸術館やパリ市近代美術館の展示のような、もっと敷き詰めたものが見たかったけれど。その後は、長い棒の上につけられた子供の顔写真の作品と、笑う子供の大きな写真にところどころ穴があいたもの。

後半だけでも「死」「終わり」を感じさせるに十分だ。もちろん、最初のあたりにある人々の写真と電球を組み合わせた祭壇のような作品群がそうだし、黒い服を積み重ねた《ぼた山》もその周りの黒い服がいくつも立っていて「怖かったの?」などと死の経過を尋ねる人形たちもみんなそうだ。

この作家がすごいのは、そうした死のイメージの無骨とも言うべき物体がどこか美的な感覚でまとまっていることだ。1980年代後半の祭壇のような物体はまだ「美術作品」らしいが、最近の作品は、電気コードのついた電球が床にころがっているだけで、金色のブランケットの上を電球がゆらりと動くだけで、なぜか美しい。

とくに今回の個展を見渡すと、どんな細部にも孤独と絶望と死があり、一方に永遠の自然があるのがわかる。今のところ、私にとって今年一番の展覧会だ。

 

 

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