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2019年7月 5日 (金)

『旅の終わり世界のはじまり』への苛立ちと安堵

黒沢清監督の『旅の終わり世界のはじまり』は、試写を見た友人の批評家から「いまいちどころか、いまさんくらい」と聞いた。ところがある時、蓮實重彦さんと会ったら「すばらしい新境地」とべた褒めだった。ようやく劇場で見た。

もともと私は前田敦子が好きではない。あの甘えた表情が苦手で、どうして名だたる監督たちが彼女を起用するのか正直わからない。この映画は彼女演じる葉子が出ずっぱりで、葉子が見て体験するウズベキスタンが描かれる。

葉子はテレビの芸能レポーターで、ディレクターの吉岡(染谷将太)、カメラマンの岩尾(加瀬亮)、アシスタントの佐々木(榎本時生)と共に湖の「怪魚」を撮るべく、ウズベキスタンに滞在している。「怪魚」が見つからないので、遊園地の拷問のような遊具に挑戦したり、地元料理を食べたりして映像を撮りためる。

空いた時間に葉子は1人で街に出る。英語もろくも話せないのに自由に動くので、危ない目に会ったり警察に捕まったりもするが、何とかホテルに帰る。そして救いは日本にいる恋人とのラインでのやり取り。ところがある時、東京の事故で彼の安否が危ぶまれる。

葉子はいかにも無知で自分勝手な日本の女の子。自分の都合や感情で地元の人々の中に入り込んでゆき、その尻ぬぐいはすべてテレビのスタッフがやることになる。結局は日本のテレビ局らしいお金での解決で、見ていてイライラする。

葉子は街を歩いていて、遠くでオペラの歌声(「ラ・ボエーム)」を耳にする。それをたどってゆくと立派なコンサートホールがあって、彼女は忍び込む。いつの間にか彼女はそこでオーケストラの演奏を前に「愛の賛歌」を日本語で歌っている。その半分夢のようなシーンは終盤に蘇る。

あるいはカメラマンに言われて、自分で小型カメラを持って、バザーを写し始める。カメラを回す葉子とそれを撮るテレビクルーが画面に広がる。これはおもしろくなるかと思うが、それまで。

結局、わがままなバカ娘に付きあわされて、その幻想とも夢ともつかない世界を彷徨うことになる。それが不愉快からある種の快感に転換してゆくのは、さすがに黒沢清監督。周囲の小さな音を拾い不穏さを掻き立てながらも、光や風の動きを追ってある種の「調和」に持ってゆく。前田敦子の声と身体がそれに呼応する映像にどこか安堵を覚えた。

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