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2019年8月22日 (木)

『タロウのバカ』の時代感覚

9月6日公開の大森立嗣監督『タロウのバカ』を見た。この監督は最近は『日日是好日』のようなのどかな話を繊細に撮っているが、実は『ゲルマニウムの夜』(2005)以来、作品によっては相当にダークな面を抱えていた。いままでだと『ぼっちゃん』が一番闇の世界に迫っていたと思っていたが、今回はそれをはるかに上回った。

主な登場人物に世間的にまともな者は一人もいない。みんなタガが外れている。普通だとそこにある種の社会的な視点が出てくるが、この映画はそうした意味付けさえも拒否しているようだ。

少年のタロウ(YOSHI)は、一度も学校に行ったことがなく、宗教にすがる母と暮らしている。高速道路が上を走る川辺の空き地で彼が遊ぶのは高校生のエージ(菅田将暉)とスギオ(太賀)。エージはかつて半グレの吉岡(奥野瑛太)にいじめられたことがあり、3人で吉岡を襲って拳銃を手に入れた。

スギオは片思いの同級生がいるが、彼女はネットで出会う男に体を売っている。エージは柔道の特待生だったが、膝を壊して退学を余儀なくされる。吉岡は半グレの仲間を率いて3人に反撃をする。

話はそれだけで、誰も何かを成し遂げようとするわけでなく、その場しのぎのように毎日を暮らしている。こういう自堕落な若者を描くときにありがちな、格差や貧困や原発などの社会的な深みもない。それでも119分画面から目が離せないのは、映像に強度があるからだ。

冒頭、吉岡が経営する廃墟ビルの地下の施設に目を剥く。障碍者と認知症の高齢者が一緒に入れられて、半グレたちが世話をしているのだから。そしてそこで人が殺され、その男を埋めに行く場所でもう1人が殺される。タロウにはダウン症の男女の友人がいる。彼らは互いに好き合っているが、タロウはそれを不思議そうに見る。

障碍者や認知症やダウン症の患者を、暴力が支配する世界を描く映画に出すことのヤバさ。3人はそのタブーを日常として生きる。映画の中で何人かが意味なく死んでゆく。それも彼らにとっては意味がない。

見終わって、「こんな日本に誰がした」と思わず思った。日頃自分が蓋をして見ようとしない世界なのに、奇妙なリアリティがあった。それがオリジナル脚本でこの映画を撮った監督の時代感覚なのだろう。今年後半の話題作になるのでは。

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