それぞれの吉武美知子さん
先日、吉武さんのお別れ会「それぞれの吉武美知子さんを語る会」Chaqu'un a sa Michikoに行ってきた。弟さん、諏訪敦彦監督、黒沢清監督、アテネの松本正道さん、中学・高校の同級生の女性、蓮實重彦さんが「それぞれの吉武美知子さん」を語った。その間、彼女が製作した映画の抜粋と多くのスナップ写真が投影された。
いろいろ考えることがあった。一番驚いたのは、彼女が高校生の時から「我が道を行く」タイプだったこと。同級生の方の話だと、試験勉強はしたことがなく試験の時に真剣に考えたらどうにかなる、という主義だった。そして3年生の時に先生と揉めて、謝らずに中退した。そしてアテネ・フランセに通ってフランス語を勉強しながら、こっそり電気屋の配達のバイトでフランスに行くお金を稼いでいたという。
この会でも何度か触れられたが、彼女は年齢を明かさなかった。私も聞いたことがないし、どこの大学を出たとかという話もしなかった。彼女は学校や大学のような「制度」が嫌いで、「素手で一人で生きる」ことを考えていたのではないか。だから寺尾次郎さんや私がフランスから勲章をもらった時に反発したし、私が大学に移るのも批判した。
だからどんなに偉い人に対しても、ごく普通に接した。蓮實重彦さんは83年のロカルノで初めて会ったというが、彼をパレ・ロワイヤル付近の屋根裏部屋(私はそこは行ったことがない)に何度か招いていたというし、蓮實さんも毎夏帰国時に自宅に呼んでいた。ある時、彼女のバイクに「乗ってみる?」と言われて彼女の腰に掴まってサン=シュルピス広場を二往復したらしい。
高校の同級生も、毎夏必ず自分に会う時間を作ってくれたと語った。みんなそうだったが、当然それぞれは知らなかった。私は吉武さんの会なら全員知り合いかと思っていたが、集まった百名弱のうち半分も知らなかった。私も夏には時間を作ってもらっていたが、だんだん大人数になり、ある時から「帰ります」という連絡が来なくなった。
私の場合、90年代から2000年代前半が一番親しかった。投影された写真を見て思ったのだが、当時はフランス関係、あるいは映画好きというだけでみんな仲良かった。今は会っても目も合わせないような人同士が吉武さんと楽しそうに一緒に写っていた。
二次会で、「おフランスの映画関係者は早死にする」という話になった。吉武さん、去年の寺尾さん、少し前の梅本洋一さんとみな60代で亡くなった。私も危ないかもしれない。いや、蓮實重彦さんも秦早穂子さんも80代で元気バリバリなので活躍中なので、2通りに分かれるか。
9月初旬にはぴあフィルムフェスティバルで、後半にはアンスティチュ・フランセ東京で吉武さんが関わった映画を上映するという。彼女が一番喜んでいるだろう。
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