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2019年8月19日 (月)

トリエンナーレと「パブリックアート」

「あいちトリエンナーレ」の「芸術と不自由展」問題はもう論じ尽くされた感じもするが、「朝日」の宮台真司氏へのインタビューで気になる点があった。「今回の中止は脅迫による混乱が理由で、言語道断です。毅然(きぜん)とした態度を貫かないと、脅した者勝ちになる」には全く同意する。

「警察と連携、別会場でボディーチェックなど対処法を編み出すべきなのに、それをせず3日間で中止したトリエンナーレ実行委員会や津田大介芸術監督は未熟すぎます」も同意見で、私も「論座」に書いた。

しかし「今回の問題の本質は、税金が使われて公共の場で展示される「パブリックアート」の矛盾です」と今回のトリエンナーレを「パブリックアート」として論じている後半には疑問を持った。

「パブリックアート」は駅前の彫刻のように、誰もが無料で見たり触れたりできるもの。「あいちトリエンナーレ」は、愛知芸術文化センター(その大半は愛知県美術館)、名古屋市美術館、豊田市美術館が中心で、有料である。そのうえに、「芸術監督」がいてその責任で作品を選んでいる。

勘違いされやすいが、瀬戸内国際芸術祭や越後妻有国際トリエンナーレはそうではない。こちらは野外展示が中心で、有料ではあっても無料で誰もが見られる作品も多い。何より作品を選んでいるのが「アートフロントギャラリー」という画廊を営む北川フラム氏で、彼は「総合プロデューサー」であっても「芸術監督」ではない。

瀬戸内や越後妻有では、例えば「〇〇大学芸術学部」のような参加もある。誰かが責任を持ってある基準のもとに作品を選んでいるというよりは、多くの人々が参加して賑わうことが目的だ。いったん作った作品のその後の恒久展示も多い。つまり、芸術祭を利用して観光資源を増やすという目的で、「パブリックアート」と重なる部分がある。

だから瀬戸内にも越後妻有にも、本質的に不快感を覚えるような作品はまずない。普通の人々が「おもしろい」と思えるものが中心だ。私はどちらも行ったが、観光を兼ねて遊びにいくならこの2つは抜群に楽しい。

ベネチア・ビエンナーレだってそれほど楽しくない。しかし知的刺激に満ちている。あいちトリエンナーレもそれを目指したはずだ。それは「パブリックアート」とは似ているようで違う。

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