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2019年10月 7日 (月)

2度目の『ジョーカー』

トッド・フィリップス監督『ジョーカー』はベネチア国際映画祭で見ていたが、もう一度見たいと思って劇場に出かけた。昨年の『ローマ』も一昨年の『シェイプ・オブ・ウォーター』も、ベネチアの金獅子賞受賞作は日本で字幕入りで見ると面白さが増したから。

ところが今回は必ずしもそうではなかった。一番大きかったのは、ストーリーがわかっていたこと。最初に見た時は、売れない芸人のみじめな主人公が地下鉄で若い3人の証券マンを撃ち殺すあたりから、どんどん盛り上がった。そして最後に地下鉄でみんながジョーカーのマスクをかぶり、街では暴動を起こすシーンに狂喜した。

ベネチアに限らず、国際映画祭のコンペは作家性の強い監督のアート映画が多い。そういう映画を毎日見ていると、このようなノリノリの映画に乗せられてしまうことがある。そのうえ、社会から疎外された恵まれない者が怒りを爆発させ、同じような思いの市民が連帯する話だから、60年代後半の反体制的雰囲気でもあり、現代の格差社会に思いをめぐらすこともできる。

テレビで主人公がフレッド・アステアの出る白黒映画を見ていたり、街では金持ち向けにチャップリンの『モダン・タイムス』が上映されていたり。主人公が好きなバラエティー番組の司会はロバート・デニーロ。こうした映画史的な目配せも嬉しい。「ゴッサム・シティ」が実は70年代から80年代前半の荒れたニューヨークという設定も巧み。

そして何より主人公アーサー=ジョーカーを演じるホアキン・フェニックスが優しい男だったり、どう猛な鬼になったりと演技派ぶりを見せる。階段や車の上でダンスをするシーンは実に優雅。何度か出てくる笑いが止まらない病気のシーンが痛々しい。彼のアップが何度も出てくる。実は私は直前の予約でIMAXで2列目だったから、画面いっぱいの彼の顔にちょっと引いた。音楽も繊細だがかなり音量が大きくて物理的にこたえた。

見ている途中から、これは主人公の妄想なのかと思わせるシナリオもうまい。そしてバットマンの少年時代まで見せてくれる。あれやこれやで社会的にも政治的にも知的にも映画史的にも「正しい」のだが、2度目はなんだか計算づくの映画に見えてしまった。1回目は字幕がなかったぶん細部がわからず、かえって良かったのかも。

映画では時代がいつか明示されていない。2度目の今回は、地下鉄の落書きやテレビの形や番組の雰囲気、大きな留守番電話、証券マンの感じなどからたぶん1980年前後と思った。ネットを見ると1981年らしく、ほぼ当たり。

 

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