多和田葉子『献灯使』に痺れる
多和田葉子という作家は私と同世代だが、なぜか一度も読んだことがなかった。芥川賞を取った時、大学卒業後にドイツで暮らして受賞当時には既にドイツ語で小説を書いていたと知って驚いた記憶がある。今回初めて『献灯使』を読んだのは自宅近所の名書店「カモメブックス」に文庫が並んでいたから。
「全米図書館翻訳部門賞」と書かれていた。つまり英訳がアメリカの図書館の推薦図書になったということで、興味を持った。そして読んでみてびっくり。この前衛性というか、歴史や未来を見通すようなビジョンを感じたのは、日本の作家では大江健三郎以来ではないか。読めば読むほど痺れてきた。
まず、その設定に驚く。大災厄後の日本は鎖国になった。英語は禁止、外来語も使わなくなり、インターネットもない。そんな世界で百歳を超えた義郎は、曾孫の無名(むめい)を養って生きている。義郎が履く「韋駄天靴」は岩手で作られている。
「靴の中に「岩手まで」と毛筆で書かれている。この「まで」は、英語を習わなくなった世代が「made in Japan」の「made」を自分なりに解釈した結果できた表現だった」
「made」を「まで」と読むようないい加減な言葉遊びは、ほとんど居直りであり、同時にシュールの域。義郎は百歳を超えて働き続けるが、無名の世代は総じて体力が衰えていて、自分で服を着ることも歩くこともろくにできない。そしてパン屋と「定年退職は不思議な制度でした」と語る。パン屋は言う。
「このパンも実は昔はジャーマンブレッドと呼ばれていました。今の正式名称は讃岐パンです。パンも外来語なんですけどね」
義郎は答える。
「パンは遠い国が存在することを思い出させてくれるからいいですね」「もしかしたら、人間は誰も予想していなかった方向に進化しつつあって、たとえば蛸なんかに近づいているのかもしれない。曾孫を見ててそう思います」
義郎の妻は別居して孤児院を運営し、娘夫婦は沖縄に移住し、孫は義郎がためた金を持って逃げ出す。ある時女を連れて帰ってくるとその女は子供を産んで死に、孫は失踪。義郎と曾孫だけが残る。
この曾孫が「献灯使」(なんと優雅な言葉遊び)としてこっそり外国に送られるところで小説は終わる。私はほとんどその設定だけで痺れてしまい、開いた口が塞がらない。
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