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2019年12月 5日 (木)

『小津安二郎 サイレント映画の美学』を読む

滝浪佑紀著『小津安二郎 サイレント映画の美学』をようやく読んだ。前にもここで書いたように、最近は30代、40代の若手の映画研究者が自分の博士論文を基に分厚い本を出すことが増えているが、1977年生まれの著者によるこの本もその1つ。

この本はシカゴ大学に提出された博士論文を改稿したもののようだ。つまり英語で出したわけでそれだけで私は感心してしまう。そのうえ、小津安二郎という研究され尽くしたような大監督を取り上げるとは。

この本の基本的なスタンスは、小津安二郎のサイレント映画を当時のハリウッド映画や映画理論のなかにおいて考えるというもの。著者の言葉だと「小津はいかにして自身の特異な映画スタイルを練り上げたのかという発生論に対する問い」。そこで基本となるのは、小津のサイレントに現れる「動き」と「明るさ」という美学のようだ。

「小津はこの美学を、映画の〈動き〉が〈明るさ〉以上のことを意味する地点にまで推し進めたのであり、この極限性にこそ、松竹蒲田映画―さらには日本映画全体およびグローバルな規模でその美学が共有されたサイレント映画ーという文脈と歴史のなかにおける小津映画の特異性が存するのである」

そしてエルンスト・ルビッチのとりわけ『結婚哲学』との小津作品の詳細な比較をする。筆者自身がこうまとめている。

「小津はその後、『東京の女』の冒頭シーンでこうした〈動き〉をいかに扱うかという問題をめぐって、一層徹底的に『結婚哲学』を模倣し、さらに不連続性に穿たれた〈動き〉との関連において、特異な〈視線の一致しない切り返し〉を発展させたのであり(第三章)、不安定性を意味する映画の〈動き〉を宙づりにするという試みのなかで、小津映画はハリウッド映画の〈明るさ〉の感覚から離脱し、〈はかなさ〉ないし「自己疎外」の性質を獲得したのである」(第四章)」

そしてこの美学をジャン・エプスタインのフォトジェニー論やクラカウアーの映画論と比較し、さらに「『生まれてはみたけれど』とロシア映画『カメラを持った男』の比較から、小津は映画の〈動き〉を〈明るさ〉の性質に結び付けていたために、映画による直接的影響を介した観客の覚醒というプロレタリア映画の革命的意図を理解しなかったのだと主張した(第五章)」

小津を同時代的な映画理論と比較して解釈するのは、おそらく今までに誰も試みていない。この根底にはミリアム・ハンセンの「ヴァナキュラー・モダニズム」の概念があるようだが、ハンセンを読んでいない私はよくわからない。筆者の滝浪氏が共訳のミリアム・ハンセン著『映画と経験』を読んでみようかな。

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