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2019年12月15日 (日)

喪失の1年:柴田駿さんが亡くなった

今年は私に大きな影響を与えた人々が次々にいなくなった。1月に母が、6月に吉武美知子さんが、11月にジャン・ドゥーシェさんが亡くなったが、柴田駿さんも逝ってしまったニュースが一昨日流れた。柴田さんはフランス映画社の社長だった。

大学生の時は、タルコフスキーの『ストーカー』やアンゲロプロスの『アレクサンダー大王』などを配給するフランス映画社をBOW(Best of the World)シリーズのマークと共に仰ぎ見ていた。こういう映画を配給する仕事をしたいと心底思った。

柴田さんの妻でフランス映画社の副社長だった川喜多和子さんに会ったのは、85年のカンヌ。コンペでつまらないオーストラリア映画を途中で出たら、彼女は既に外で煙草を吸っていて「ひどいわね、昔だったらみんな出てたわよ」と声をかけられた。

フランス映画社の試写に初めて行ったのは80年代末だった。最初の職場の先輩に連れて行ってもらい、和子さんが試写のリストに入れてくれた。たまに試写に行くと柴田さんは私をじろりと見るだけで、とにかく怖かった。93年に和子さんが亡くなられてからは試写状も来なくなった。

最初にきちんと話したのは95年末の映画生誕100年イベントの時。朝日ホールで蓮實重彦さんや吉田喜重さんが座談会をしたが、蓮實さんは客席にいたアンゲロプロス監督を舞台に呼んだ。映画生誕にまつわる映画『ユリシーズの瞳』のキャンペーンで来日していた。もちろん会場に連れて来たのは柴田さんで、お二人を急遽夕食会に加えた。

96年にフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)でジャン・ルノワールの全作品上映を企画した時は、柴田さんが権利を持っていた『素晴らしき放浪者』など数本をお借りした。なかなかOKをもらえずに、ずいぶん手こずった記憶がある。そう簡単には上映させない、という感じだった。

その後少しずつ親しくなり、試写にも呼ばれるようになった。蓮實さんなど共に関係者だけの初号の試写にも声を掛けられた。白金の邸宅のパーティを手伝ったのは2001年頃だろうか。2003年の小津安二郎生誕百年シンポでホウ・シャオシェンやマノエル・デ・オリヴェイラ、05年の溝口健二没後50年シンポでビクトル・エリセを招いたので、この頃は柴田さんと何度も会った。

大学に移ってからはフランス映画社のプレス資料を手伝ったこともあるが、翻訳に何度もダメ出しをされた。オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』のトークも頼まれた。最後に会ったのは2011年にエリセが来日した時で、蓮實さんと4人で昼食をした。今日はここまで。

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