ゼロ地点から
去年の今頃は母の病状がかなり悪かったことを思い出す。結局、母は1月末に亡くなった。今も自分の文章がたまにどこかに載ると、母に送ろうと考えて、もういないのだと気づく。それから、去年は「師」と仰ぐ人が何人も去ってしまった。
吉武美知子さんもジャン・ドゥーシェさんもいなくなった。この30年間、パリに行くたびに会った。吉武さんはこの数年は毎年ではなくなったけれど。もはやパリに行く目的の半分がなくなった。
フランス映画社の柴田駿さんも逝った。若い頃に強烈な影響を受けたタルコフスキーやアンゲロプロスやホウ・シャオシェンやベルトルッチやヴェンダースなどの映画のほとんどは、柴田さんの配給だった。これらの映画を見ていなかったら、今までの自分の仕事は考えにくい。柴田さんにはだんだん近づいて少しだけ仕事をしたが、最後まで距離があった。変人だとわかったが、それでも彼を尊敬していた。
私は働き始めたのが1987年だから、もうすぐ32年になる。うち、大学に移ってからも11年近くたった。「教授」「先生」と呼ばれて、偉そうに人前で話し、文章を書く。それが今でもどこか後ろめたいのはなぜだろうか。
昨日書いたように、ミシェル・ウェルベックの『プラットフォーム』の主人公は、文化省に勤めて、現代美術の分野でものごとを右から左に「移動」させていた。私も最初は公的機関で文化、特に現代美術に携わっていた。それから新聞社で展覧会やイベント屋をやって、記者の真似事をしているうちに「先生」になった。『プラットフォーム』の主人公が回想するように、自分では何も生みだしていない。
『プラットフォーム』を読んで、自分もうまくして「文化」を仕事にラクな暮らしをしてきたのだなと思った。小説の主人公は「文化というのは、人が生きていて不幸を感じるときに代償物として必要になる」と言う。私にはそんな余裕はなかった。非文化的な環境に生まれて、「文化」を求めてあがき、それを仕事にする立場にたどり着いた。
「文化」は実はある種の決め事で成り立っているので、それをはずすと楽しくもおかしくもないが、その中で暮らせたらとりあえずラクだ。今年は私に影響を与えた人々のくびきから解かれて、その「決め事」をはずす試みをしたいと思う。「そもそも」のゼロ地点に戻りたい。元旦の朝にそんなことを考えた。
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