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2020年1月11日 (土)

「目線」と「立ち位置」から

今の大学生に課題でレポートを書かせると、ほとんどが使う言葉が「目線」と「立ち位置」。私は古臭いので、このような最近出てきた言葉を好まない。「これはテレビ界から来た言葉」だとして、どちらも「視線」「見方」「立場」「視点」などに直す。

しかしある時、これらの言葉が20世紀後半から21世紀前半の思想状況を表しているかもしれないと思い当たった。つまり、フェミニズムにしてもポストコロニアリズムにしても文化多様性にしてもはては#MeTooまでも、要は自分がどこから見るのか、これまで自然に立っていた位置を疑うことから始まっている。

例えば西部劇の授業をする。インディアン=ネイティブアメリカンが、どのように描かれているか。征服する側の白人とどう違うか。あるいはメキシコ人はどのような役割をするか。そもそも誰の物語が語られるのか。登場人物の持ち物や仕草、そして流れる音楽の細部に至るまで「差別」「区別」は明白である。

そしてそれは時代と共に変化してゆく。このような見方に学生は極めて敏感だ。これが女性の描かれ方になると、それほど簡単ではない。1940年代から50年代にアメリカで栄えた「フィルムノワール」(探偵や殺人を扱った暗い雰囲気や内容の作品)に頻繁に出てくる「ファム・ファタル」(運命の女)はどうなのか。

男性を手玉に取る美女たちは、一見自由で新しい女性に見える。しかしよく見るとそれは男性の願望が作り上げた虚像に過ぎず、彼女たちの多くは自分でものを考えたり、主体的に行動することはない。このような女性の「空虚さ」に敏感なのは、当然ながら女子学生たちだ。

あるいは日本人は外国映画でどのように表されているか、韓国人は日本映画でどのような役割を担ってきたか。アメリカ映画における中東はどう表象されてきたか。考え出すと、今日的な問題にすぐにぶつかる。

ある女子学生は卒論をアニエス・ヴァルダ監督について書いているが、同時にほかのヌーヴェル・ヴァーグの男性監督についても調べてみた。すると第一回長編のゴダールの『勝手にしやがれ』もトリュフォーの『大人はわかってくれない』もシャブロルの『美しきセルジュ』もすべて極めて男性中心の物語だったことがわかった。私も改めて考えてみてその通りだと思った。

この件に関してはフランスで既に本が1冊出ているとはいえ、日本ではこの視点で書いた文章は読んだことがない。学生たちは無意識のうちに時代の思想を取り込んでいるのだと思った。「上から目線」という表現を日常的に使いながら。

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