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2020年1月14日 (火)

『マザーレス・ブルックリン』のフィルムノワール度

エドワード・ノートン監督主演の『マザーレス・ブルックリン』を劇場で見た。個性派俳優が自ら監督した「1950年代を舞台にしたフィルムノワール」とあらば、見ないわけにはいかない。

フィルムノワールとは、映画史では1940年代から50年代にかけてのアメリカの暗い探偵、犯罪、ミステリーものを指す。『マルタの鷹』や『三つ数えろ』などがその代表格だ。その特徴はいくつかあるが、ボイスオーバー・ナレーション、フラッシュバックの多用、濃淡のメリハリのついた画面、ファム・ファタルの存在等々。

さてこの映画はどうかと言えば、なかなか微妙なところ。まず、冒頭からエドワード・ノートン演じる主人公のナレーションが聞こえて来た。探偵のライオネルはボス(何とブルース・ウィリス!)の指示に従って、犯行現場に行く。そこでボスはあっけなく殺される。この「着いたら死んだ(または死んでいた)」=Death on Arrivalというのもまたノワールの常套手段だ。

ところが主人公の雰囲気はどこかヘンだ。中折れ帽とコートはいいが、神経質なチック症で横を向いて不規則な発言をしてしまう。よく聞くとその言葉が相手を皮肉っていたりしておかしい。これではどうしてもコメディ・タッチでフィルムノワールにならない。

ファム・ファタルも結局出てこない。最初は死んだボスの妻がそうかと思うが途中でいなくなるし、ライオネルが仲良くなる黒人女性ローラは悲しい境遇の出身で、とても男をたぶらかすタイプではない。

そのうえ、ライオネルが行きつ戻りつしながらボスの死の秘密を探り始めると、政治的な黒幕が出てくる。アレック・ボールドウィン演じるモーゼスがニューヨーク市の再開発を担当しており、貧困層を追い出してビルや公園を作り出す。ほとんど現代に通じるような格差社会の構造が解き明かされてゆく。もちろんフィルムノワールにこうした社会性はない。

つまるところ、フィルムノワールの時代や設定を借りながら、孤児院出身で貧困層に共感を持つドジな探偵が笑わせながら社会の真実にたどり着いてゆく物語。50年代の建物と衣装にもかかわらず、どこか現代的なあか抜けた感じがする。ローラが連れてゆく黒人のジャズ・バーは唯一暗黒の雰囲気が漂っているが、演奏もウィントン・マリサリスなどどこか今風だ。

エドワード・ノートンの心がだんだん伝わってくるし、ジャズ・バーやその周りの街などを丁寧な撮影で見せてくれるので、見て得をした感じのする風変わりな1本。

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