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2020年3月22日 (日)

春休みに分厚い本を読む:その(2)

四方田犬彦著『無名 内田吐夢』について、もう少し書いておきたい。内田吐夢について一番知りたいのは、なぜ彼が8年も中国に留まったかということである。これについては内田本人も敢えてあまり触れていない。この本は、四方田氏がかつて満州映画協会(満映)で働いていた4人と内田たちがいた場所を訪れた場面から始まる。

内田吐夢が満州に3度目に行ったのは、45年5月。東京大空襲の後で敗戦の色は濃かったが、内田が出かけた理由は満映との合作を「関東軍司令部に製作中止を報告する」というもの。実際は『土』以降、制作の機会がなかった内田が「映画監督として当面の苦境を乗り越えるためには、東京でも京都でもない、どうしても別の場所が必要だった」

満映は終戦後「東北電影工作者連盟」(東影)になり、日本人は再雇用された。中国では国民党軍と八路軍の戦いが始まり、東影は八路軍に従ってハルピン、そしてソ連国境へ移動する。その間、帰国もできたが、内田は留まった。四方田氏によれば「やはり新中国に一抹の希望と期待を抱いていたからであろう」

それから共産党の幹部が増えて、軍事的に必要でない日本人と家族117人は炭鉱労働に従事させられた。これを「精簡」と言う。内田は「日本を代表する監督の存在が邪魔でしかたがなかった」共産党幹部によって、精簡に加えられて団長となった。

内田たちは寒村で「半ば沈没した石炭積み出し船からまだ使える石炭を掬い上げ、天秤棒で陸へ運ぶ」「食事は貧しく、トウモロコシの粉で蒸しパンを拵え、大根の塩汁を添えたものしか与えられなかった。衣服は配給されず、極寒の夜には零下三五度にまで下がる」。そして49年5月に長安に行くまで炭鉱に留まる。

10月には中華人民共和国が成立し、内田は長春の東影で映画の編集の理論について講義をした。東影で内田と一緒だった岸富美子は編集の授業をして中国の女性映画人を育てた。「東影は元満映の設備をそのまま踏襲したこともあって、15の試写室があり、ソ連東欧の新作フィルムが休む間もなく上映されていた」。三国連太郎が『未完の対局』で北京にいた時に、録音とメークのスタッフが内田のかつての教え子だったという。

1953年10月14日、内田は最後の帰還船で舞鶴に着く。それから1年にわたって療養生活を続けた。「巷ではよく満映の残党が帰国して東映を興隆させたといわれるが、事実はそれほど簡単ではない」「1953年という遅い段階で帰国した者たちには、厳しい目が向けられた。東宝争議に続いてレッドパージがあり、映画界は「アカ」の侵入に過敏になっていた」「大手の映画会社五社は、帰国者は採用しないという協定を結んだ」

「内田は「雪の降る街を」という歌をひどく気に入っていて、酔うと繰り返し口ずさんでいたという」。「雪の降る街を/雪の降る街を/思い出だけが/通り過ぎてゆく」という歌である。この歌の寂しさは映画『飢餓海峡』とつながっている気がする。

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