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2020年3月30日 (月)

日本統治下の朝鮮映画について再び:その(1)

ドイツ占領下のフランス映画について調べながら、同時に日本統治下の朝鮮映画についても考えている。朝鮮映画については既にここで何度か書いたが、最近気になっているのが二重言語状態、つまり1本の映画で日本語と韓国語が混在していることだ。ドイツ占領下のフランス映画ではすべてフランス語なのに。

朝鮮で日本語教育は併合直後の1911年から行われていたが、当初、授業自体は朝鮮語だった。いわゆる「国語常用」、つまり朝鮮におけるすべての学校の授業を日本語で行うように法律で決まったのは1938年。意外なことに映画においては、その後も朝鮮語が使われ続ける。まず最初のプロパガンダ映画と言われるのはその年に作られた『軍用列車』(徐光霽=ソ・グアンジェ監督)だが、これはほぼすべてが朝鮮語である。

日本語が聞こえるのは、京城駅の日本人区間長の従業員への挨拶と列車の車内アナウンス「どなたさまもおつかれさまでした。次は京城、京城」くらい。日本語での授業風景がよくわかるのは、1940年の『授業料』(崔寅奎=チェ・インギュ監督)で、日本人の田代先生(薄田研二)が日本語で授業をする。

生徒は学校では日本語を話すが、学校の帰りでは朝鮮語だ。主人公が自宅で祖母と話すのも当然ながら朝鮮語。祖母は日本語ができないという設定で、田代先生は家庭訪問をして祖母と話が通じないので、「困ったなあ」と言う。つまり学校以外はすべて朝鮮語の映画である。この映画は、プロパガンダと言うべきか迷うくらい繊細に子供の心を描く秀作だ。

翌年の『志願兵』(1941年、安夕影=アン・ソギョン監督)は、すべてがうまくいかずに悩んでいた朝鮮人が志願兵制度に応募して未来が開けるという完全なプロパガンダ映画だが、ここでも日本語は少ない。映画は「映画報国」「光輝ある皇紀2600年を迎え、我ら半島映画人はこの一篇の映画を南総督に捧ぐ」の文字で始まる。

「南総督」とは1936年から6年間朝鮮総督を務めた南次郎で、国語常用も志願兵制度も創氏改名も彼の時代に行われた。この映画で日本語が聞こえるのは、主人公の春浩が日本人の知人に会って、「いい話があるんですよ」「今朝の新聞読みましたか」と言われるシーン。

日本人は日本語の新聞を見せる。「志願兵制度の実施」と書かれており、春浩は「私の希望はこれだったんです」と日本語で言う。そこに戦争のラッパの音が響く。ラストで春浩と婚約者の芬玉(文藝峰=ムン・イェボン)が見つめ合い、日本語の歌が鳴り、日の丸がはためく。ラストは線路に立つ芬玉の微笑のアップ。

1941年は12月に真珠湾攻撃が行われる年だが、まだまだ朝鮮総督府は映画での朝鮮語の使用を許していた。それが変わるのは1943年だが、今日はここまで。

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