卒業式に考える
昨日、私が勤務する大学で卒業式があった。「あった」といっても、「式」自体はなかった。もともと大学全体の式は武道館が改装中なので各学部で行う予定だったが、それもなくなって学科単位になった。
私の学部は、各学科で全員に名前を呼びあげて卒業証書(最近は「学位記」と言う)を渡す。自分の卒業時もそうだったが、誰に聞いても中学校以上は普通は代表者に渡して後は各自が事務室に取りに行くのに。今年は私の大学でも代表者のみにした。さらに学科を人数で2つに分けて、1時間ずらして開催した。
私の学部には卒業制作や卒業論文の優秀な学生に対する賞がいくつもある。これも自分が卒業した大学にはなかった。教員はそれを選ぶのが一苦労だが、もらった学生たちは嬉しそうだ。もちろん何ももらわない学生の方が多いので、ちょっとかわいそうでもある。
例年だと学生の両親など家族も大勢来る。場合によっては、祖父母など一家で何人も来たりする。彼らも学位記授与式に後ろの方で参加するのだから、すごい。自分の卒業した大学は、そもそも家族なんて想定外だった。今年は私の大学もさすがに家族の参加はできなかった。
いつもならその後にある学部主催のパーティも夜の会費制のパーティも中止。それでも女子学生の多くが羽織袴でやってきた。たぶん2/3くらいか。既に予約済みだったからだろうが。私は個人的にはそんなお金があったら別のことに使ったらと思うが、それは個人の勝手だ。
学生は学位記をもらって、我々教員と写真を撮るとすることがない。それでも廊下や校庭に残っていつまでもはしゃいで写真を撮っている。私は4階の研究室の窓からその様子を見ながら、ちょっと心配になる。ほかの大学では、卒業式をせずにネットで中継しているところもあるようだが、こんなに集まったらどうなるのだろうか。
10日後くらいに、全国各地での卒業式がクラスターになって、集団感染が発生しなければいいが。もちろん学生は感染しても若いからまず大丈夫だが、その両親や祖父母はわからない。あとである学校が起点だったことが明らかになるかもしれない。
15時過ぎには大学を出た。まだ学生は大勢残っていたが、話に夢中で誰も私に気がつかない。大学に移ってもう11年がたってしまった。
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