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2020年3月13日 (金)

春休みに分厚い本を読む:その(1)

大学の教師にとって、春休みは一番自由な時間がある気がする。もちろん2月以降、授業の採点、卒論・卒制の審査、入試・採点などの物理的な拘束や締め切りはあるが、それ以外は意外にポンと空く。私にとっては夏休みより時間がある感じ。

まして今はコロナ騒ぎで大学に行く回数は減った。大学図書館も3月中の閉館が決まったので資料探しもできない。というわけでこれまでに買って読んでいない大きな本に手をつけることにした。

四方田犬彦著『無名 内田吐夢』は去年の5月に出た本だが、気になってすぐに買った。内田吐夢は、1898年、溝口健二と同じ年に生まれ戦前から『警察官』(1933)『限りなき前身』(37)などの秀作を残したが、1945年5月に満州に行って敗戦後も53年まで中国に留まった。そして不死鳥のごとく蘇り、『飢餓海峡』(64)のような大傑作を残している。

しかし溝口のような世界的な評価はおろか、日本でさえも今では忘れられたに等しい。戦前の作品の多くは失われ、『警察官』など残存する作品もDVDになっておらず、私もそれらは今の国立映画アーカイブで20年以上前に見たきりだ。戦後の作品も授業で取り上げたことのある『飢餓海峡』に『血槍富士』と『たそがれ酒場』(共に55年)以外は、きちんと記憶していない。

そういう場合にあまり細かい作品分析を読んでもしかたがない。とりあえずは「はじめに」と「終わりに」を読み、あとは好きな映画の分析の部分を読む。この本の「後記」には、なぜこの本を書いたかが書かれてあって興味深い。

四方田氏はこの本を書くことが夢だったという。しかし自信がなかった。「自信らしきものがようやく生じてきたのは、法然や親鸞の著作を本気になって読みだしてからである」「内田吐夢を論じるということは、単に彼が監督したフィルムを分析することではない。中里介山から吉川英治、水上勉にいたるまで、二〇世紀の日本人が読み耽った国民文学を論じることであり、それを享受してきた日本人の心性の歴史について考えることである」

法然、親鸞から国民文学まで読まないといけないとは、これはかなわない。映画研究は長い間、監督や作品の美学を語ることだった。「すでに評価の定まった映画作家の作品について、いくたびもDVDで細部を確認し、精緻な分析を施すだけで、映画を研究したことになるのだろうか、すべてありえないことだと、私は思う」「思えば小津千年、溝口万年の時代だった。内田吐夢の存在は完全に忘れられている」

「後記」だけで長くなった。この本は内田の満州時代から始まり、前半で帰国から死までを述べた後に後半で戦前に移る。四方田氏は故国を離れて長い歳月を過ごした監督として、内田吐夢と並んでルイス・ブニュエルを挙げる。彼は数年前にさらに厚いブニュエル論を出しているから、納得がいく。そちらも「積読」状態なので、この春休みに手を出したい。

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