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2020年4月23日 (木)

東京タワーに並ぶ

東京タワーに登った。もちろん今は閉じているので、行ったのは夢の中だ。なぜ東京タワーに行くことになったのか、わからない。確かなのは父と母を連れていたこと。恐ろしく長い列に並んだが、列は左右に2つあった。

列が2つの理由もわからない。確かに窓口は2つあったが、列は1つの方がフェアなのに、と思ったのは目が覚めてから。私は左側の列に並んだ。母は疲れたと近くのベンチに腰掛けた。父はいつの間にかいなくなった。

結果としては、左側の列が圧倒的に有利だった。朝早くから並んで窓口にたどり着いたのは夕方に近かったが、右側の待つ人々の苦しそうな姿を横目に私は券売窓口に急いだ。母も父もいなくなっていて私1人だったので、1枚のチケットを買った。

私がそこに登ったのはたぶん1度しかない。1973年夏、世間が金大中事件で騒然としていた頃、福岡の小学六年生の私は剣道の全国大会に出るために父と東京に行った。町の代表選手6人の1人だったが、試合は予選で負けて翌日のはとバスの東京見物で東京タワーに登った。

その時の写真が数枚手元にあるが、私も父も赤いタワーの足の部分を前にして別々に撮っていて、ただの鉄骨にしか見えない。タワーの全景はおろか、塔らしい姿さえわかるものはない。あとはタワーの中の写真だが、後ろに窓があってもただのビルの中にしか見えない。それでも父も私も満足そうな顔をしている。父は40代のはず。

私とほぼ同世代のリリー・フランキーの小説『東京タワー』でわかるように、当時の地方の小学生にとって、東京と言えば東京タワーだった。そこに登らなければ、東京に行ったことにならなかった。今はそんな場所はどこだろうか。東京タワーでないことは間違いない。

その後、東京タワーに登る機会はなかった。近くまで行ったのは、今はなきロシア料理店「ヴォルガ」に行った時と、とうふ懐石の「うかい」に行った時くらいか。「うかい」には当時シネマテーク・フランセーズの館長だったセルジュ・トゥビアナさんや蓮實重彦さんと一緒だった。

そのほかは、いつもタクシーの中から見ていた。あるいは六本木などを歩きながら「あるな」と見ていた。そして今のコロナ騒ぎで家に籠っている時に、忽然と東京タワーが現れた訳はわからない。確かなことは、私にとってこのタワーは父母の思い出と結びついているということだ。母はパリに連れて行った時、トロカデロ広場からエッフェル塔を見て「東京タワーよりカッコよかね」と言った。母は東京タワーを見たのだろうか、姉の1人が連れて行ったのかもしれない。

東京タワーが再開したら、1973年の写真を持って、行ってみようと思う。スカイツリーには一度も行っていないけれど。

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