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2020年5月 1日 (金)

追憶のアメリカ館:その(2)

アメリカ館について思い出すと、なんだか楽しくなってくる。私は1984年の9月に住み始めたが、運よく2階の角部屋で3つの大きな窓が広がっていた。たぶん30平米くらいあって、ほかの館よりも広かった。福岡の実家の狭い部屋に比べたら、天国かと思った。

窓からは大きな木々や庭園やほかの館が見え、真ん中の大きな道をいつも誰かが歩いていた。世界中の学生が憧れのパリに集まってウキウキしている感じが、あちこちに広がっていた。

トイレと炊事とシャワーは共同で、部屋には洗面所にベッドがあっただけ。それでも大学4年生の私には十分だった。床は立派な石(大理石?)だったが冷たく、赤い絨毯をパリの2年間の留学を終えるという鈴木圭介さんからいただいた。鈴木さんはその後『リリアン・ギッシュ自伝』など英語や仏語の本を多数翻訳されているが、お元気だろうか。帰国後1990年頃に一度だけ試写会で会った。

唯一困ったのは電話で、確か各階の廊下に電話があった。外からかかってくると、その人の住む階の電話が鳴り、誰かが取って呼びに行くシステムだったが、誰も取らなかったり、呼び出しているうちに電話が切れたりした。電話をする時は、1階に公衆電話があった。携帯の普及する今では考えられないのどかな時代だった。

1階の受付にはガラスの向こうに各自の郵便受けがあって、自分宛に何かあると頼んで渡してもらう。いない時の電話のメッセージもあったが、問題はその手書きがなかなか読めなかったこと。前に書いた黒人女性が「明日も映画?」とメッセージを置いたのもここ。

地下にはカフェがあって朝食が食べられた。私は節約するために、そこでパンだけを買って自分の部屋でコーヒーを入れていた。いつもショーソン・オ・ポム(リンゴのパイ包み)1つを買った。お腹が空いている時はこれにクロワッサン1つを追加した。コーヒーはスーパーで買ったキャンプ用のガスで湯を沸かして入れた。本来は部屋で火を使うのは禁止されていたのだが。

パリ国際大学都市内にはたぶん2つの学食があった。大学に行く日の昼は大学の学食で食べ、夜や土曜日は映画を見るために外出していなければ、学生都市内の学食で食べることが多かった。値段は確か学生料金で8フラン=300円ほど。一応、前菜とメインとデザートが付いていた。前菜はプラスチック容器に入った人参の酢漬け、メインはチキンローストなどが多かったが、当時の私には十分なご馳走だった。

1992年に職場の「語学研修」と称してパリで3カ月過ごした時に、一度その学食に行ってみた。会社員になった私には、全体が脂っぽくて重くて量も多く、とても食べられなかった。人はたった数年で贅沢になるものだと思うと、寂しかった。

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