追憶のアメリカ館:その(4)
アメリカ館で暮らす前に行った北フランスのコンデット村での1週間に研修についてもう少しだけ述べておきたい。その1週間はある意味ではその後の1年間より楽しかったから。参加したメンバーの構成が微妙だった。
まず、近くのアラス市に住む10代後半の男子が5、6人。たぶん全員が高校中退で無職のあんちゃん達だった。もちろんこういう研修に参加するくらいだから、みんなどこかに真面目さや優しさを持っていたし、何より日本に興味があった。
それにフランスのほかの地域からの20代から30代の人々が5、6人。これはむしろインテリ層で、20代後半から30代の学校の先生が、ジョエル、カティ、エヴリーヌ。そのほか20代前半の女子大生が2人、さらになぜか20代半ばのインドネシアからの留学生男子が2人。
なぜか先生3人の名前を憶えているのは、その後しばらく文通をしていたからだろう。アルメニア系のエヴリーヌはアヴィニョン郊外の高校の教師だったが、彼女はその年の11月の降誕祭の休みにカティ、ジョエル、インドネシアからの2人と私を自宅に招いた。みんなが泊まれる大きな家だった。ジョエルはその後日本にもやってきた。
日本人の男性は学生3人で、20代後半の大学生と20代前半の四国の医大生と私。女性は北海道から2人、広島から2人、四国から1人ともう2人で、みんな働いていた。つまりはずいぶん異なる年齢と地域と環境の人々がフランスと日本から集まってきたわけだが、それがよかった。
幸いにしてエリート然とした人はいなかった。パリに住む者はゼロで東京に住むのは20代後半の万年大学生Wさんだけ。みんな地元で普通に暮らしていた人が、パ=ド=カレー県の貼紙1枚で集まってきた。私は東京のフランス大使館でその貼紙を見たが、日本各地のフランス語学校に貼ってあったようだ。
朝から晩まで3食を共にするから、毎日議論をする。そもそも日本人連中のフランス語は私も含めてあやふやで、いつも言葉の説明に多くが費やされる。日本人はまじめだから食事中でも辞書を引きメモする。フランス人は初めて日本人を見る者ばかりで、みんな驚いていた。
アラス市の若者たちは、みんな日本の年上の女性を追いかけ回した。インドネシアの2人は政府から航空工学の研究でトゥルーズ市の研究所に派遣されたエリートのはずだが、ギターを弾いて歌ばかり歌っていた。いつの間にかその1人とエヴリーヌはできてしまい、これはかなり後を引いた。
私は北海道から来たMさんを好きになったが、これは後日。
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