1時間で読んだ『猫を棄てる』:続き
村上春樹の新著『猫を棄てる』は1時間で読める本だが、その後に「怒涛のオンライン授業」を繰り返していたら、もう中身を忘れてしまった。しかし妙に何かが残った記憶があるので、読み返しながらもう一度考えてみた。
この本の冒頭にある「猫を棄てる」行為は、ある種のイメージ作りだ。父と海岸に猫を棄てにいった風景を、挿絵と共に見せる。そのイメージをもとに、村上春樹は自分にとっての父親について語る。
彼のようにベストセラーでありながら評価の高い小説を出し続ける息子を持った父親はさぞ得意ではなかったか、と普通は思う。ところが2人の間は「葛藤」や「軋轢」があったという。
「僕が若いうちに結婚して仕事を始めるようになってからは、父との関係はすっかり疎遠になってしまった。とくに僕が職業作家になってからは、いろいろとややこしいことが持ち上がり、関係はより屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態となった」
「父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだった。そのとき僕は六十歳近くになって、父は九十歳を迎えていた」
「そこで父と僕は—彼の人生の最期の、ほんの短い期間であったけれど—ぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった。考え方や、世界の見方は違っても、僕らのあいだを繋ぐ縁のようなものが、ひとつの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった」
父との和解というのは、とりわけ男性にとって大きな問題ではないだろうか。この本で語られる父親もそうだが、要は父親が期待した通りに息子はならないから。人生観、価値観が決定的に違う。とりわけ戦前に軍国主義教育を受けた後に、戦後は自分の力で生きてきた父親の世代には、のんきな息子が我慢できない。
村上春樹は私より一回りと少し上だが、この感じはだいたい同じ。あえて言えば、私は彼の世代のような学生運動は経験していない。私は「六十歳近く」だが、もし父が生きていたら90歳を回ったところだった。父は30年ほど前になくなったので「葛藤」や「軋轢」はさほど長続きしなかったが、それでも高校生の時から10年以上続いていた。
この本で出てくる「自分が、時代に邪魔をされて歩むことのできなかった人生を、自分に代わって、僕に歩んでもらいたかったのだと思う。そのためにはどんな犠牲も惜しまないという気持ちでいたはずだ」という言葉はよくわかる。
思わず自分の父の話になってしまったが、この薄い本はそれだけの普遍性、あるいは大衆性を持っている。
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