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2020年5月25日 (月)

ユーチューブで映画を見る:その(2)『東京の宿』

小津安二郎監督の『東京の宿』(1935)も、かなりいい状態でユーチューブで見ることができる。日本にトーキーが導入されたのは1931年の松竹の『マダムと女房』からだが、小津は同じ松竹なのにその後もサイレントにこだわり続けた。

小津の最初のトーキーはその導入から5年後の1936年の『一人息子』で、前年に作られた『東京の宿』は「サウンド版」。これはセリフなしで音楽だけを入れた過度期の形式で、今の観客にはこれだけでもずいぶん見やすいだろう。

この映画は小津の中で「喜八もの」と呼ばれる。『出来ごころ』(33)や『長屋紳士録』(47)と同じく、東京の深川を舞台にちょび髭の坂本武が喜八を、飯田蝶子が「かあやん」として相手役を演じる。

喜八は家も仕事もなく2人の息子を連れて、職を探しながら場末の工場街を歩く。同じような境遇のおたか(岡田嘉子)とその娘と会う。その後喜八は昔なじみの「かあやん」ことおつねに再会し、仕事を見つけてもらう。酒場でおたかが娘の病気の治療費を払うために酌婦として働いているのに出くわし、喜八は金を盗んでおたかに金を渡す。

場所は「砂場」や「猿江」という言葉が会話に出てくるから、現在の江東区の門前仲町や木場付近だろう。私はそこに近い豊洲に数年住んだからわかるが、あのあたりには今でも運河沿いの何もない工業地帯がある。

映画では、大きな木製のパルプ巻取り、石油タンク、煙突、草ぼうぼうの野原、花火などが際立つ。この頃の小津は既に移動撮影は少なくなっているが、この映画で移動を使うのは喜八たちが放浪する時。人物に並行して動き、動きよりも平板さや何もなさを強調する。

一見イタリアのネオリアリズモのような社会派に見える。しかしドラマは終盤に起きるのみで、盗みの現場も見せない。あえてモノトーンな画面を繰り返し見せて人間存在の虚無に迫る。草ぼうぼうの荒地も、白い大きなとっくりの並ぶ居酒屋も「何もない空間」が心に残る。その表象では極めてシュールで現代的だ。

お金の話が何度も出てくるのも印象に残る。犬を拾うと市役所から40銭もらえ、3人で食事すると40銭、喜八は30円借りようとする。今なら40銭は400円、30円は3万円くらいか。原作者として「ウィンザアト・モネ」がクレジットされているが、これはWithout moneyのもじりだという。まさに金のない話だから。 

岡田嘉子はいつもの影のある女がぴったり。彼女はいつも誰かのために身を売る役だが、いったん「酌婦」=「堕ちた女」になると、普通の世界に戻れなくなる。仕事がないとすべてを金に支配され、女は身を売り、男は盗む。これは今も変わらない。85年前の映画とはとても思えない。

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