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2020年5月 4日 (月)

追憶のアメリカ館:その(3)

1984年9月にアメリカ館に住み始める前に、私は7月末にパリに着いた。そこで旅行会社が予約した当時の自分には高級すぎるマドレーヌ広場の三ッ星ホテルに泊まり、翌日TGVでディジョンに向かった。そこで1カ月外国人向けのフランス語夏期講習を受けるためだった。

その1カ月はあまり記憶にない。私は京都外国語大学での仏語弁論大会1位で授業料と滞在費をもらって1人で来たが、全体の1/4くらいを占めた日本人はほとんどが日本の複数の語学学校からの団体に属していた。

多くは女性で、それもフランス好きのOLが多く、あまり話が合わなかった。その時に会った何人かとかその後も連絡をしたが、いつの間にか途絶えてしまった。住んだのは大学のそばにある学生寮で、昼は大学の学食で食べたが、夜や土日の食事は1人が多くて寂しかった。

できるだけいろいろなイベントに参加した。おもしろかったのは料理教室で、夕方5時くらいからシェフと一緒に10名ほどの生徒が一緒に作って食べる。これは楽しくて安くて食事も出たので、何度も参加した。これが今の料理好きの原点ではないか。週末のロワール川のお城巡り1泊旅行にも参加した。それでも友達はあまりできなかった。

「惜しかった」と思うのは、私がフランス語を習っていた30歳前後の女性教師から声をかけられたこと。彼女も偶然同じ学生寮で(どこか別の地域から教えに来ていた)、部屋番号を教えてもらっていた。「いつでも遊びにいらっしゃい」と言われたが、そのままに放っておいた。丸々とした赤ら顔の彼女の笑顔は、記憶の底にある。

1カ月後、私はパリに行き、別のグループに参加した。これは北フランスのパ=ド=カレー県が企画した1週間の研修で、その県の若者、フランスの別の地域の若者が合わせて15人、ある1つの外国からの若者が10人が集まって、「パ=ド=カレー県の魅力を知る」というもの。たまたま東京のフランス大使館文化部の貼紙を見て、応募した。

私が参加したのはもちろんその外国が「日本」だった時で、条件は自分の費用で自力でパリまで来ること。パリに着くと2泊を用意してくれ、1日はガイドさんに観光案内をしてもらった。それからもらった切符で北駅から特急電車に乗り、パ=ド=カレー県のアラスに着いた。

バスで連れて行かれたのはコンデットという小さな村だった。その村の食堂付きの研修施設で1週間過ごした。毎日、工場や美術館を見学したりヨットに乗ったりテニスをしたり。朝から晩まで遊んで一緒に食事をした。ここは抜群に楽しかった。何人かは今も連絡を取っている。今日はここまで。

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