« 真夜中に電子音が | トップページ | 『君はなぜ総理大臣になれないのか』に泣く »

2020年6月17日 (水)

驚異的な博覧強記の『イタリア芸術のプリズム』

岡田温司著『イタリア芸術のプリズム』を読んだ。副題に「画家と作家と監督たち」と書かれているので気になったが、実はイタリア映画論だった。著者はイタリア美術史の専門家だが、『映画は絵画のように』(2015)という映画史を縦横無尽にめぐる本がある。

今回はそれをイタリア映画に絞った。私は常々イタリア映画は日本では過小評価されていると思ってきた。今、日本で劇場公開されるイタリア映画は年に4、5本だが、フランス映画は20~30本。60年代にはイタリア映画の輸入は年に50本を超し、フランス映画を上回ることも多かったのだが。

それに比べたらダ・ヴィンチ、カラヴァッジョなどイタリア美術の存在感は強い。この本は一言で言うと、イタリア映画の名作がそうしたイタリア美術を十分に吸い込んで開花しているさまを見せた本だ。

私もそうだが、映画の専門家はすべてを映画のなかで説明しようとする。もちろんそれはかつてあまりにも社会や政治といった文脈で語られ過ぎたことへの反発であり、「映画的」という言葉で映画固有の美学を語ってきた。「映画共和国」という言葉はジャン・ルノワール監督が発したものだと思うが、映画は国を超えて影響し合い、結びつきくという理想郷だった。

ところがこの本を読むと、映画という視覚的な表現の基礎にその国の美術史や文学史がしっかりと存在することが、イタリアを例に示される。考えてみたら当たり前のことだが、今、日本の映画評論家や映画研究者に、ある国の映画についてこうした解説ができる人はいるのだろうか。日本映画については、かつては評論家の今村太平、最近では高畑勲監督が絵巻物とアニメの関係について語ったくらいではないか。

前置きが長くなったが、この本は5章からなり、ピランデッロ、フェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニ、ベルトルッチとイタリア絵画(と文学、宗教も少し)の関係を述べたものだ。ピランデッロだけが監督ではなく、『作者を探す六人の登場人物』で知られる劇作家だが、彼が書いた映画制作を巡る小説『カメラを回せ』(1915年に雑誌発表、10年後に『撮影技師セラフィーノ・グッピオの手記』と改題されて単行本)について語っている。

実はこの第1章の「ピランデッロと初期映画」が私には一番おもしろかった。「二十世紀初頭、一九一〇年代半ばまでの十年余りは、トリノとローマを中心に、イタリア映画の最初の黄金期と目され」、「ジョヴァンニ・パストローネに象徴されるようなスぺクタクル史劇と、イタリア・オペラの伝統を部分的に継承するディーヴァ映画があって」、一方で未来派グループによる前衛的な映画もあった。

この小説は主人公のグッピオがディーヴァ映画『女とトラ』を撮影しており、その日記と回想が入り交じるという構成のようだ。それはベンヤミンの複製芸術論や、ジガ・ヴェルトフ、バスター・キートン、ジャン・エプスタンからネオリアリズモまでの映画を予言しているというのが結論。その驚異的な博覧強記ぶりに、かつての山口昌男を思い出した。今日はここまで。

|

« 真夜中に電子音が | トップページ | 『君はなぜ総理大臣になれないのか』に泣く »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 真夜中に電子音が | トップページ | 『君はなぜ総理大臣になれないのか』に泣く »