追憶のアメリカ館:その(11)マリーさん
1985年7月末、1年間過ごしたパリのアメリカ館から帰国した。それから地元の大学の仏文学科を卒業し、早稲田大学の大学院に行った。実はその間、就活をして内定ももらったが、結局行かなかった。
パリから福岡で半年過ごして初めて東京に住み始めたが、まだフランスに未練があった。大学院で本格的に映画を研究して、博士論文を書くために3、4年後に渡仏するというのが当時描いていたコースだったが、どう考えても自分に向いているとは思えなかった。
ある時、パリの国立映画学校を受けようと思い立った。かつてIDHEC=イデックと呼ばれており、私が受けた時はちょうど今のLa Femis=ラ・フェミスに変わる最初の年だった。そこにはいくつものコースがあって、私は「製作・配給・管理」という部門を受けることにした。
一次試験は書類で、当時新生ラ・フェミスが間借りしていたパレ・ド・トーキョーに結果を見に行った。自分の名前があったのを覚えている。二次試験は9月半ばで筆記と面接だった。8月からパリですることもない私は毎日シネマテークで古い映画を見ていた。ある時そこで日本映画(何か思い出せない)を見に行って、マリーさんを見かけた。
自分から声をかけると覚えていて、それから食事をした。その次に一緒に日本映画を見る約束をした。私は友人のセルジュ君のアパートを9月末まで借りており、安ホテルに移る予定だったが、マリーさんは「うちに来たら」と言ってくれた。結局、映画学校は二次試験で落ちた。10月初めにセルジュ君からマリーさんの家にいた私に電話があり、封筒を開けて結果を教えてもらった。
そのままパリにいてもしかたがないので、帰国を決めた。マリーさんはいずれ日本に勉強に行く、と言っていた。東京に戻り、大学院の生活を復活したが、どうも中途半端な気分だった。そうこうするうちに、マリーさんは勤めていた映像制作会社を辞めて、翌年の1月に日本にやってきた。
武蔵関の独房のようなアパートに住んでいた私は、高田馬場のアパートに引っ越した。広くはなったが、オンボロに変わりはなかった。そうしてマリーさんと一緒に暮らしたのは3カ月ほどだっただろうか。いろいろあったが、一番の変化は就職したこと。
3月初めに朝日新聞を読んでいたら、「国際交流基金職員募集」という小さな求人があった。そこにはThe Japan Foundationと英文も書かれていて、それを見たマリーさんは「これはあなたにぴったり。パリ事務所もある」と教えてくれた。受けにいったらなぜか採用になり、4月から急に勤め始めた。今日はここまで。
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