『荒野を旅する者たち』についてもう一度
加賀乙彦『荒野を旅する者たち』(1971)について、気になった部分をメモしておく。何といっても自分が1984年9月から1年過ごしたパリのアメリカ館の部分が一番気になった。
パリで3年ほどを過ごした精神科医の宇都宮可知は、自分の患者で好きになったジゼルがいなくなったという話を彼女の両親(母親は日本人)から聞いて、パリを探し回る。両親によればアメリカ人のジョージと連れ立って出たらしい。可知はジョージを見たことがあった。
「右側にアメリカ館のファッサアドが見える。大学都市の中では国際会館に次いで大きな建物だ。あのたくさんの窓のどれかがジョージのものだ。が、ジョージなどという名の人間はアメリカ館には無数にいるだろう」
「一階は豪華なシャンデリアの耀く大きなサロンになっている。両隅に階段があり、右が女子宿舎、左が男子宿舎に通じるようになっている。丁度この階段を見張る位置に玄関番溜り(コンシエルジュリ)がある。アメリカ館では男女の部屋が画然と別になっているのだ。だからジョージの部屋にジゼルがいることは絶対にありえないのだ」「可知はサロンから階下の食堂まで目の届く限りを見て回った」
私はアメリカ館が男女別だったことは記憶にない。しかし私の部屋は確かに正面から見て左側だったし、周囲の部屋にも男性しかいなかった。今は知らないが1980年代は男女に分かれていたのだろう。しかし行き来は自由で自分の部屋近くの廊下でよく女子学生を見たし、私の部屋にもクラスで一緒だった黒人の女子が訪ねてきた。
確かに真ん中にガラス張りのような形で受付があって、自分の部屋番号に郵便があるか見て、あったら取ってもらった記憶がある。電話交換手の役割もやっていた。加賀乙彦が過ごした1950年代末には、男女の出入りも監視していたのかもしれない。
「国際会館」には、主として大食堂があった。ここもよく通った。「国際学生会館(メゾン・アンテルナショナル)の食堂では夕食時が午後六時一五分から八時半の間と定っていた」「食事はセルフ・サーヴィス・システムで、定食として順に並べられたスープ、肉、野菜、デザートの盛り付け皿を盆に取り、葡萄酒と牛乳だけは別に買うのである」
これはたぶん84~85年も変わっていない。私の時代はスープではなく前菜だったし、前菜とデザートが5、6種、メインが2種類くらいの選択肢があったと思う。それで8.5フラン、たぶん250円くらいだったのではないか。たまに何人かと食べる時にはワインの小瓶を買って飲んだ。営業時間もたぶん同じ。
私がいた当時は週に一度夕食にクスクスが出た。毎週土曜日夜だったと思うが、そもそもアラブ系やアフリカ系の料理人が作っているから、これはおいしかった。その日はいつも2、3倍の客で混んだ。安くてうまいので、パリ中からアラブ人がやってくると言われていた。
クスクスは、ご飯が好きで食べ盛りの私には一番の好物だった。学食でもレストランでもよく食べた。今はクスクスは自分で作るが、お腹が張るので、ほんの少ししか食べられない。それでも時々無性にクスクスを食べたくなる。あの巨大な学食のアラブ人たちの長い列を思い出しながら。
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