『パブリック 図書館の奇跡』に考える
エミリオ・エステベス監督の『パブリック 図書館の奇跡』を劇場で見た。興味深い題材だったが、最近見た新作では一番期待外れだった。新聞各紙の映画評ではかなり高い評価だったのに。それでも考えさせられることの多い内容だったのは間違いない。
映画は真冬の米・シンシナティの公共図書館が舞台。監督兼主演のエミリオ・エステベス演じるスチュワートは図書館で働いているが、来館者には暖を求めて来るホームレスも多い。職員はそんな彼らを追い出さず、うまく関係を保っていた。
とりわけ寒いある日の夕方、時間になってもホームレスたちは図書館を出ようとせず、入口を閉じて占拠を始めた。町中にあるシェルターは満員で行き場がないと言う。たまたまスチュワートは占拠された側にいて、図書館の警備や警察との交渉をすることになる。
図書館長、息子がホームレスの警察署長(アレク・ボールドウィン)、市長選に立候補中の検事などが「制圧」側だが、途中で図書館長はホームレス側につく。これにスチュワートの同僚の女性、彼のアパートで出会ったばかりの恋人、テレビ局のアナウンサーなどの女性陣も加わって、それぞれの思惑を含めたドラマが展開する。
ところが映画は最初にスチュワートが出てきた時から「いかにも」の場面ばかりで、まるで「公共図書館とは何か」を考えるために無理に作られたように思えた。ホームレスたちの占拠が市民的な広がりを見せるかと期待したが、いくつものおもしろくなりそうな要素を見せながらも、結実しなかった。
原題はThe Public。映画の図書館の名前はシンシナティ公共図書館Cincinatti Public Libraryで、公共図書館はニューヨークにもあって、ワイズマンのドキュメンタリー『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の舞台になった。ここは旅行者でも誰でも入れる図書館で、中ではレクチャーや語学教室なども開いているのはワイズマンの映画で見た通り。
いざという時はホームレスを泊めてもいいのではないか、という発想は公共=Publicの概念による。みんなのための施設なのだから、もっと柔軟に対応したらどうかという考えだ。日本だととんでもないということになるが、アメリカだと「場合によっては」ではないか。
個人的には、日本は役所を筆頭に図書館も美術館も学校も「公共」施設はもっとオープンにすべきだと思う。例えばコロナ禍で「何ができるか」を考えたら、いろいろありそうだ。
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