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2020年8月20日 (木)

『マーティン・エデン』の映像に酔う

9月18日公開のピエトロ・マルチェッロ監督『マーティン・エデン』を最終試写で見た。傑作揃いだった去年のベネチアのコンペで見ていたが、中でも大好きな1本だった。しかし全体に謎のような感じがあったので、日本語字幕付きで見たいと思った。

原作は20世紀初頭のアメリカの人気作家ジャック・ロンドンの小説『マーティン・イーデン』。この映画は大胆にも舞台を20世紀のイタリア・ナポリに移し、1人の作家の誕生とその後を描く清冽で抒情溢れる青春映画となった。

マーティン(ルカ・マリネッリ)は11歳の時から船乗りになった武骨で無学の男。偶然に金持ちの娘、エレナに出会い、その影響で突如文学に目覚める。エレナは教育が必要だと学校に通うことを勧めるが、中学校に行くとあまりの教養のなさに小学校に行けと言われる。

それでも独学で本を読み、書き始める。船との契約が切れて鋳物工場で働くが、そこも数カ月でやめて、居候している姉夫婦の家からも追い出される。エレナとの手紙のやり取りがそれぞれの声で響く。運よく郊外の家に間借りし、タイプライターを買って原稿を打ち、出版社に送り付ける。しかし一向に採用されず、エレナともすれ違ってゆく。

困窮し病気で倒れた時にようやくある雑誌から採用の知らせが届く。これを機にマーティンは一挙に作家として認められるが、それは必ずしも幸せなものではなかった。

文字もろくろく書けない青年が、愛と文学に同時に目覚め、猛突進する姿がいい。ひたすら本を買って読み、タイプライターを打つ。断られても、断られても書き続ける。彼の成功を祈るエレナ、何とか応援しようとする姉、郊外の部屋を貸すシングル・マザーのマリア、才能を見抜いた老詩人のブリッセンデン、鋳物工場からの友人ニーノなど見守る人々の優しさが染みる。

猪突猛進のマーティンのシーンの合間に挿入されるのはナポリの人々の生き生きとした姿。さらに禁止された本を焼く焚書の場面などのアーカイブ映像も混じる。それもまた「大いなるナポリ」としてマーティンの存在を見守り支える。粒子の粗い16㎜の映像と濃い色彩が目に焼き付く。

あえて時代は特定しない。音楽は80年代風だが、社会主義の流行や終盤の「戦争が始まった」という知らせなど、1920年代から30年代のことか。まるでどこの時代にもいると言わんばかりの、マーティンの直截で過激な文学青年ぶりは普遍性を持つ。

栄光を手に入れた後半は痛々しい。みんなにちやほやされ、それを馬鹿にするマーティン。申し込まれた決闘にさえも応じる。これもまた人生の真実だろう。前作の『失われた美』(2015)は4年前にパリで見たが、才能あふれる前衛的作品だった。今回も舞台はナポリという南イタリアの都市だが、青春とは何かについて直球で迫った大いなる映画となった。

21世紀になってイタリアからは『ゴモラ』のマッテオ・ガッローネや『グレート・ビューティ/追憶のローマ』のパオロ・ソレンティーノなどの鬼才監督が出てきたが、この映画のピエトロ・マルチェッロ監督は彼らを上回るのではないか。文句なく今年の外国映画の最高傑作だろう。

そういえば、10月2日公開のドイツ映画『ある画家の数奇な運命』もこれと似ている。20世紀ドイツを舞台に画家の愛と青春を描いた青春映画の秀作で、こちらも去年のベネチアのコンペに出た。これについては後日書く。ああ、今年はベネチアに行けない。

 

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