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2020年10月 4日 (日)

加藤幹郎さんと波多野哲朗さんが亡くなった

9月26日に加藤幹郎さんが亡くなったと思ったら、波多野哲朗さんも一昨日亡くなられた。一般にはそれほど知られていないと思うが、映画史研究において重要な役割を果たした方々だった。加藤さんはあまり面識がなかったが。

何がきっかけか忘れたが、加藤さんからご著書をお送りいただいた。そのお礼に自分が企画した映画祭のカタログを送ったり、招待券を送ったりした。当時、京都大学の助教授で『映画のメロドラマ的想像力』を始めとして精力的に執筆活動をしておられたが、東京で一度だけ会った。その時の感じがどこか横柄に見えたが、友人に話すと「京都で京大の先生は神様だからね」

彼は多くの若い映画学者を育てた。私が知る限りでも、お弟子さんは国立映画アーカイブ研究員歴代数名のほか、東大、早大、神戸大、新潟大など全国の大学で教えている。これは蓮實重彦さんや松浦寿輝さんが教えた東大より多いのでは。ご本人は私の属する映像学会と揉めて辞め、自ら映画学会を立ち上げた。

波多野さんは長らく面識がなかったが、東京造形大の教授で、岩本憲児さんと『映画理論集成』などの編者を務め、『西部劇 夢の伝説』などの訳書があった。その前に1969年に山根貞男さんと『シネマ69』を立ち上げて、蓮實重彦さんに初めて映画批評を書かせた編集者としても知られていた。

私が話すようになったのは、大学に移ってから。そこの大学院で教えておられたので、教員室でよく話した。「蓮實さんは、お経のような評論を書く奴が東大にいると聞いて会いにいったのが最初でね」とか「フランス映画社の柴田君は、よく続けているよねえ、でも最近映画が当たらなくなったね」とか言う話が聞けて、楽しかった。

長めの髪でお洒落でお茶目で、特に女性に人気があった。山形のドキュメンタリー映画祭にはいつもいたが、夜に彼の後ろを若い女性が何人も歩いていたのを見たことがある。山形の旅館の娘に教え子がいて、そこにいつも泊まっていたが、映画祭の終わりに「東京に連れて行ってくれ」とせがまれて自分の車に乗せた。彼女は東京で働き始めたが、波多野さんは申し訳なくてその旅館に泊まれなくなったと話していた。

自分の意見を通す人で、まさに加藤幹郎さんが映像学会と揉めた時に一人だけ彼を擁護したと聞いた。私は加藤さんが辞めた理由はよく知らないが、そんなこともあって波多野さんは映像学会の会長を一期しか務めなかったのかもしれない。

私の学生企画の映画祭にも何度か来てくれた。ダンディな波多野さんが颯爽と現れた時のことをよく覚えている。「こんな渋いプログラムは、学生じゃ無理。古賀さんの息がかかっているに違いないね」と笑っていた。波多野さんは『サルサとチャンプルー』というドキュメンタリー映画も作っていた。「見ました」と言うと、本当に嬉しそうだった。彼の茶目っ気のある笑顔が忘れられない。

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