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2020年10月27日 (火)

日本学術会議問題から見えてくるもの

日本学術会議の会員任命拒否問題で驚いたのは、政府を批判する声と同じくらい日本学術会議とは役に立つのかという意見が噴出したことだった。菅政権の支持率が6割を超すような時代だからしょうがないかなと思ったが、『アエラ』での東浩紀氏の反応にそうかと思った。

「政権は任命拒否が強い反発を呼ぶことはわかっていたはずだ。それでも「勝てる」という計算が働いたのではないか。(中略)日本学術会議を自由の旗にすることがどれほど市民に支持されるか、筆者はいささか心許ない。マスコミは例のごとく沸騰し野党は国会論戦に持ち込む構えだが、同じことは「モリ、カケ、桜」でさんざんやった。その結果がいまの盤石の支持率である。政権は内心「しめしめ」と思っているかもしれない 」

つまり、反発はわかっていたが、今の日本の国民心理だと「勝てる」という計算のもとにあえて「暴挙」をやったということだ。この狡猾さは安倍首相にはなかった。そういう意味では怖い。

もう1つ気になったのは、同じコラムで翌週に内田樹氏が「大学人」と「学者」の違いを書いていたこと。「2014年の学校教育法の改正で大学教授会はその権限のほとんどを奪われた。(中略)みな黙って権利剥奪を受け入れた。そのとき、官邸は「学者というのは存外腰の弱いものだ」と知った」

そこで内田氏は「大学人」と「学者」は違うと書く。「大学人は大過なく定年まで勤めることを切望している「サラリーマン」である。学者は違う。学術共同体という「ギルド」で修業を積んできた「職人」である。どれほどの「腕前」であるかがギルド内の唯一の査定基準である」

個人的には、大学人はサラリーマンであるという部分に深く同感した。一般的には大学人は自由な発言が許される立場のように見える。自分の専門分野ではそうだろうが、こと大学に関わる問題になるとみな口をつぐむことは、この10年で痛感した。自分もだんだんその雰囲気に飲まれつつある気がする。

大学の教師は、授業と研究や書くものに関しては、他人から一切の口出しをさせないことが保証されている。もちろん学会誌への掲載には査読はあるが、それは「口出し」とは違う。ほかの仕事に比べたら自由な時間も多い。こんな自由があるのだから、あとのことは流れるに任せよう、というのが多くの大学人の本音ではないか。

内田氏の言うように学者は違うのか。それも私は疑問がある。そもそも大学を離れて学者は存在しにくい。本を書いて生きるフリーの学者はめったにいない。内田氏のように大学を早期退職した文筆家は何人もいるが、彼らは学者も辞めている場合が多い。

今日は書いていて、我ながら情けない。

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