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2020年11月18日 (水)

佐倉の「性差の日本史」に考える:続き

国立歴史民俗博物館の「性差(ジェンダー)の歴史」展については、語りたいことがまだまだある。前に書いたように古代の政治空間において、男性が中心になりだしたのは律令制ができた7世紀末だが、生活空間においては、「八世紀~九世紀半ばの資料を見ると、田植えが男女混合で行われた事実が確かめられる」

「ところが、九世紀後半~一〇世紀になると様相が大きく変わり始める。まず田植え労働では、男女混合は変わらないものの女性労働の比率が高まり、いわゆる後の「早乙女」の原型が生まれる。また農業経営では、有力農民である田堵(たと)が荘園や公田を請作するようになるが、田堵の名前を記した徴税簿には原則として男性名が登記され、経営の主体が男性中心に変わってゆく」

展覧会では後半部分になるが、ここで考えたのは「日本の古代社会における男女の出会いや性的交渉にかかわる規範はゆるやかであり、職業としての売春が生まれたのは、九世紀後半頃からである」というパネル解説だ。遊女関連の展示は抜群におもしろい。

「売春は最古の女性の職業」という言葉は、日本に関しては間違っている。むしろ男性が社会の前面に出だした頃に生まれたといえよう。「前身は遊行女婦や娘子とよばれる専門家人で、地方の役所で行われる宴会に参加し和歌を詠んだ」。後の「芸者」と同じくもともとは相当の教養が必要だったようだ。「一〇世紀以降は流行歌謡である今様(いまよう)を取り入れ、次第に今様の専門家とみなされるようになる」

展覧会では13世紀後半の足柄の今様の家系図が展示されている。家業として母から娘に伝えられているが、おもしろいのは「弟子」として多くの貴族の名前が書かれていることだ。「遊女たちは拠点ごとに集住し、数十人から数百人規模の団体を形成していた」「中世の遊女たちは、「家」と集団とを基盤として自主的・主体的に生きた人々であった」

鎌倉末期には、神戸の遊女たち1700人が守護代を訴えて訴訟を起こしており、その文書が展示されている。あるいは法然の一周忌の寄付に遊女の集団の名前がある文書もある。「一五世紀後半以降、こうした遊女集団のあり方に大きな変化が訪れる。一つは遊女屋の経営者が男性に変わっていくことである」

展示されている信長の『安土日記』では、80人の女性が売買されていた記録がある。そして江戸時代になり、公式に遊女町=遊郭が設置される。遊女屋に寺社が遊女を担保として貸し付けをしている証文がある。あるいは豪商の三井家は特定の遊郭と契約を結び、独身社員を通わせた文書も。江戸後期の遊女の日記も抜群におもしろいが、それは後日。

展覧会は平日昼間でもそれなりに混んでいた。老若男女問わず熱心に見ていたのが興味深かった。12月6日まで、土日祝及び12月は要予約。

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