忽然と蘇る寺尾さん
先日、学生から「映画の字幕翻訳家になりたいのですが」と相談された。その時に忽然と寺尾次郎さんの顔が蘇った。フランス語を中心とした字幕翻訳家の寺尾さんは2018年の6月に亡くなられたが、私は彼以外に字幕を仕事としている人を個人的に知らない。
学生には「寺尾次郎さんが生きておられたら、時々授業に来てもらっていたけど」と言って、寺尾さんが授業で話していたことをかいつまんで言った。字幕翻訳家は希望者は多いがそれだけで食べていくのは大変なこと、今は衛星放送や配信など業界全体の仕事は増えているが、安かろう悪かろうの字幕が増えていること、そこから生まれた価格破壊の字幕翻訳者が劇場の映画にも進出して困っていることなど。
寺尾さんに来てもらった授業は「映像ビジネス」というもので、映画、映像の世界で生きているさまざまな方に1回ずつ来てもらっている。いわゆるプロデューサーや買い付け、宣伝、劇場、映画祭の担当者が多いが、最近は予告編制作会社の方や宣伝物のデザイナーや映画パンフの編集者などへと幅を広げている。
そんななかで寺尾さんにも3、4回来てもらった。彼は笑いながら「1時間であなたもできる映画字幕」をやってくれた。まず5分ほどの英語の映像を字幕なしで見せて、事前に学生に配っておいた台詞を区切ってゆく。そして台詞ごとの秒数を出して日本語を当てはめてゆく。何度か訳語を試して確定させていき、最後にその日本語を入れた映像を見せると学生から歓声が上がる。
そしてつまりは「語学以上に日本語の問題になります」と締めくくる。寺尾さんは「私は古賀先生と違ってフランスに留学していません。大学でもフランス語の専攻でなく、NHKのラジオ講座で勉強しただけです。あとは映画会社の宣伝担当者で字幕翻訳家の方と仕事をして覚えました」
ジャケットを着て偉そうな私の横で、ジーンズにセーターの寺尾さんは何ともかっこいい佇まいだった。授業を頼むのは毎年11月や12月だったが、夏はいつもTシャツだった。多いのが映画のキャンペーン用Tシャツで、「Tシャツはいつももらうからめったに買わない」と笑っていた。私は映画に限らず何かのキャンペーンのTシャツを着ると、いつも彼を思い出す。
そういえば、私自身が企画した展覧会や映画祭でアニエス・ベーにTシャツを作ってもらった時は、寺尾さんに会ったら「あれ、一枚ちょうだい!」と言われたことがあった。それを渡したかどうか、記憶にない。たぶん忙しくて忘れたような気がする。当時は本当に忙しすぎた。
この2、3年で自分の母も含めて多くの近かった人々が亡くなった。しかしその記憶は日々蘇る。だんだん日々の暮らしで追憶の占める割合が増えている。
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