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2020年11月26日 (木)

高橋源一郎氏の『たのしい知識』を読む

高橋源一郎氏の新刊新書『楽しい知識』を読んだ。本屋で最初のページをめくったら、「小学校一、二年の頃、新しい教科書が配られるのが楽しみだった」という文章から始まって思わずその光景を思い出して買った。確かにそうだったと思ったから。

小学生の頃の本や知識への憧れは大きかった。ところがそれはいつの間にか「勉強」になり、受験になった。私の場合は大学生の頃から本を読むことがなぜか「義務」のようになって、今まで続いている。

さてこの本の題名は『たのしい知識』だが、別に知識を得ることの楽しさを説く本ではない。身近な問題を取り上げて、さまざまな本を紹介しながら、著者が右往左往しつつ答えを探す。読者は読みながら、一見無駄なようで重要なことをたくさん考えることになる。

取り上げられるテーマは脈絡がない。最初は日本国憲法、次に天皇制、さらに記憶、韓国・朝鮮、そしてコロナ時代について考える。だから自由に書かれたエッセーのようでもある。

一番驚いたのは、短めの記憶の話だった。知人の妻がおかしくなった。「ここはどこ?」「この家は誰の家?」と言い始めたのだ。医者に連れてゆくと「突発性全健忘」で、六年分の記憶が失われていた。これは数カ月のことも数十年のこともあるという。

次にテレビで見た「記憶をつかさどる脳の中枢、「海馬」を損傷して、記憶が一日分しかない男性のドキュメンタリー」。「男は毎朝、パニックに襲われる。自分が誰で、そこがどこなのかまるでわからないためだ」

「記憶とは、実は人間そのものだ、といえるだろう。記憶のないところに、「その人」も「わたし」もいないからである」「「記憶」という、ぼくたちの後ろに広がっている空間には、一年前の「ぼく」が、十年前の「ぼく」が、そしてそれからさらに五十年前の「ぼく」もいる。「そこ」には、もうとっくに亡くなってしまった、たくさんの、懐かしい人たちも、なぜか生きたままの姿で、幼い「ぼく」に話しかけているのである」

この文章を読んで、私の最近のブログが思い出や記憶ばかりになっているのも、まあいいのかと思った。高橋氏はそういう領域を「あいだ」と表現する。過去と現在の「あいだ」である。そして加藤典洋氏の『大きな字で書くこと』でフランス人の教師が「あなたの親しい友達が亡くなったとき、あなたはフランス語で何と挨拶しますか」と言ったエピソードに触れる。

先生の答えは「そういうとき、人は自分の思いを手本のない自分の言葉で話すしかない。ここは大学ですから、会話の授業はやりませんよ」。大学はそういう言葉を自ら探すところだと考えると、さきほどの記憶の話と結びついてゆく。この本にはもう1度触れたい。

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