反乱の後に生まれて
先日、「朝日」の「ひと」欄に代島治彦さんが来春公開の『きみが死んだあとで』の監督として取り上げられていた。代島さんと言えば、映画『パイナップル・ツアーズ』を製作したり、東中野の映画館を経営したりするアート系映画業界の人だと思っていたが、最近は『三里塚に生きる』や『三里塚のイカロス』の監督をしている。
『きみが死んだあとで』は1967年の羽田事件を扱っている。これは佐藤首相のベトナム訪問を阻止する反対運動で18歳の京大生・山崎博昭さんが亡くなった事件だが、この記事では代島監督が山崎さんの大きな写真を両手で掲げている写真に驚いた。代島さんと同じくらい山崎さんが大きく写っている。
代島さんはこのポーズは記者の北野隆一編集委員の要望で、山崎さんが亡くなった羽田の弁天橋で撮ったとフェイスブックに書いていた。記事で代島さんは「学生運動を新聞で読んであこがれた小学生だった。「60年代は格好よかった」」と語っている。彼は私より3つ上で、書いた北野記者は私より6つ若い。
北野記者も学生運動に興味が大ありなのは、これまでの記事でよくわかる。私は当時は憧れたことはないが、昔から学生運動には妙に関心があった。なぜか「全共闘世代のようなノリだ」と言われたこともあったし、その世代の人々には知り合いも多い。
たまたま先日、『三池斗争と私』という小冊子を読んだ。1960年の三池炭鉱の闘争を中心に当事者の藤沢孝雄さんが書いたものだが、会社が第二組合を作ったり、久保清さんが会社が雇った暴力団に殺されたり、安保闘争と連動して総評が闘争を支援し「総資本対総労働の対決」となったりした過程が克明に記されていた。
実を言うと、三井三池炭鉱は私の実家に近い。家のすぐそばに炭鉱の住宅(長屋のような五軒横つなぎ)もあったし、その前には三井三池製作所(炭鉱関係の機械を作っていたのか)も職業訓練校もあった。当時あのあたりで「会社」と言えば三井三池を指した。まさに三井村に住んでいたことになる。
それより何より、私の父は石炭をいれる筵や紙の袋を作る会社を経営していた。子会社ではないが、100%三井三池炭鉱あっての会社だったのではないか。父はよく当時は大牟田に数軒あった料亭で三井三池の幹部を接待していた。私も小さい頃何度かそういう場に行った。
私が生まれたのは翌1961年で、三池争議は終結しており、安保闘争も樺美智子さんの死を経て終わっていた。自分は三井三池の資本家に近いところで呑気に生まれた。1970年頃に父の会社は石炭不況で倒産したが、それまではそれなりの暮らしをしていたと思う。ソファもピアノもカラーテレビも電話もあったから。
そんなことを考えるようになったのはかなり最近のことだが、私の反権力というか反資本主義的な考えは、自分の生まれへの後ろめたさではないかと思い当たった。もうすぐ父が亡くなった年になる。
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