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2020年12月22日 (火)

『この世界に残されて』の喪失感

学生の頃から東欧に興味があった。チェコ、ポーランド、ハンガリーなどの映画は好きだったし、ポーランドのカントールの芝居にはのめり込んだ。ハンガリー映画『この世界に残されて』は予告編でその寂しい感じが気になっていた。

これが88分の無駄のない佳作だった。16歳のクララは生理がないと叔母に産婦人科に連れていかれる。彼女を診察した42歳の医師アルドにクララは暖かいものを感じる。アルドと会うことで頑ななクララが少しずつ変わってゆく。ナチスの収容所でクララは両親をなくし、アルドは妻子を失っていたことが互いにだんだんわかる。

互いに父と娘を求めて2人は近づく。クララはある夜アルドのもとに泊まりに行くが、何も起こらない。アルドはクララの叔母とも話して時々クララを泊めることになる。街にはソ連の支配するスパイがいて、アルドのアパートにもやってきて連れていかれる住民がいる。

強制収容所に家族を殺されて生き延び、孤独な日々を送る人々が寄り添う。そこにソ連の占領による新たな恐怖が忍び寄る。全体を取り返すことのできない喪失感が覆う。さらに今現在起こっている嫌な感じが日増しに強まる。

お互いが言葉で過去の悲しみや寂しさを語ることはない。それはもう全身に表現されていて、そんな人たちが寄り添う物語だ。それにしてもこの2人は一緒にならざるを得ないだろうと思っていると、「3年後」スターリンが死んだ1952年にそうなっていない姿が写る。ほっとしたようで、残念なようで映画は終わる。

そういう意味では表向きはたいしたドラマはないけれど、見終わると裏に隠された大きな傷跡が迫ってくる。ナチス収容所からスターリン支配に移行した家族の歴史を描く東欧の映画と聞くと、普通は2時間半か3時間の長さを考える。しかしこれは2人の生活の日常だけに絞って88分で描いた。

最近読んだばかりの蓮實重彦著(石飛徳樹聞き書き)『見るレッスン』に「90分ですべては描ける」と書かれていたのを思い出した。

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