正月に思う
『東京物語』、『飢餓海峡』、『支那の夜』などなど、年末に古い日本映画をたくさん見たせいか、新年なのにどうも頭の中が浮世離れしている。『東京物語』の尾道や山村聰の医院がある荒川の土手、『飢餓海峡』の青函連絡船や舞鶴、『支那の夜』の上海や蘇州などを思い浮かべている。
そうしたシーンを思い浮かべると、自然と自分の原風景に戻ってゆく。九州の田舎の実家の前には線路があり、踏切があった。タクシーを呼ぶ時に「踏切の手前の古賀です」と母親は伝えていた。いつも踏切の「カンカンカンカン」という音を聞いていた。
昔はその線路を蒸気機関車が走っていた。たぶん中学生頃に少しずつ減っていったのでは。私は高校生から下宿して実家を離れたので、どうもまだあの線路にはもくもく煙を出して機関車が走っているような気がしてならない。1960年代までの映画には機関車がたくさん出てくるが、私はいつも実家の前の光景を思い出す。
踏切を渡ると「丸通の社宅」があった。「丸通」はたぶん日本通運系の会社で、駅前に倉庫を持って鉄道関係の荷物を扱っていたと思う。それから右側に行くと「ひよこ屋」。そこは養鶏場で大勢の鶏を飼っており、糞の匂いが周囲に漂っていた。今でもそのあたりの匂いは蘇る。
それから少し歩くと小さな山があって、その上に神社があった。そこは私にとっての最大の遊び場だった。山の中で木を切って組み合わせて「基地」を作って、一日中過ごしたこともあった。秋にはその神社の石段や一刈川の上り坂の両側に蝋燭を灯す「千灯明」という祭があった。たくさんの出店が出て、山の頂上の広場には芝居小屋ができた。
その日は父親は知り合いをたくさん家に呼んで宴会をやった。私は夜になると自宅と山の間を何度も行き来した。その後、蝋燭は危険だという理由で電気に代わり、いつの間にか石段も危ないということで階段部分が閉鎖された。そしてお祭自体がなくなった。
働き始めてからは年に一度くらいしか実家に帰っていない。山はあるが、その奥はいつの間にか切り開かれて大きな公園になり、いくつもの滑り台やミニゴルフ場などが設置されていた。かつては山の奥から大きな池のある反対側に出るのがかなり怖かったが、今はすべて開かれて土日には家族連れが車で来て遊んでいる。
私は大学に合格して肝臓病のために1年間休学した。半年を病院で半年を実家で過ごしたが、実家では毎日山に本を持って上り、新古今和歌集などを声を出して読んでいた。幸い、その頃はまだあの公園はできていなかった。
すべては記憶のかなたにある。老いるとは、脳内の記憶が日々の現実よりもどんどん大きな位置を占めることなのかもしれない。
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