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2020年12月30日 (水)

『私の鶯』はロシア語のオペラ映画だった

国立映画アーカイブの山口淑子特集で『私の鶯』(1944)を見た。岩崎昶製作・島津保次郎監督というだけで前から気になる映画だった。ユーチューブにはかなり画像の悪いものがアップされているが、見ていない。国立映画アーカイブのプリントはかなり状態がよく、見に行ってよかった。

見て驚いたのは、大半がロシア語だったことと、いわゆるオペラ映画だったこと。隅田(黒井恂=後の二本柳寛)がロシア人と船の中でロシア語を話す冒頭から最後に満里子が死んだ養父の墓の前で歌うシーンまで、いくつも出てくる歌も含めてロシア語で日本語字幕が当時の旧字体で打ち込まれている。隅田の友人、巽(進藤英太郎)もロシア語を話す。

日本語が聞こえるのは日本人同士の場面だけで、これほどの言語的なリアリズムは当時としては珍しいのではないか。最初に東宝と満州映画協会の提携と出てくるが、山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』によれば「製作期間十六カ月、製作費は普通の映画(約五万円)の五倍の約二十五万円」という大作である。

満里子の養父となるディミトリ・イヴァノヴィッチを演じるのはグレゴリー・サヤーピンで世界的なバリトン歌手という。彼はチャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」やグノーの「ファウスト」をメフィストフェレス役で(本来は仏語だがロシア語で)朗々と歌う。李香蘭は慈善音楽会や養父の墓の前で「私の鶯」、キャバレーで「新しき夜」を歌うが、曲の調子はオペラに近い。

ドラマは満里子が父親の隅田と生き別れして、十数年後に再開するというもの。彼女はオペラ歌手のディミトリに拾われて、養女として歌手の訓練を受ける。隅田の友人の巽はディミトリがハルピンで身分を隠して生きていることを突き止めるが、ディミトリは隅田がやってきて満里子を奪うことを恐れる。

隅田が現れると満里子は混乱するが、隅田は娘を連れ去らないと約束する。ディミトリは元気になり、「ファウスト」の舞台で歌い終えて倒れて亡くなり、一件落着。満里子は大半をロシア語で話し、日本人とは日本語で話し、花売りを注意した中国人警官に中国語で反論する場面もある。

アーカイブで見たのはユーチューブと同じ101分だが、『李香蘭 私の半生』には実際は2時間と書かれている。満里子が仲良くなる日本人画家の上野(松本光男)の部分がたぶんもっとあったかもしれない。あるいはディミトリたち亡命ロシア人たちの描き方が足りない。

カットされた部分のせいかドラマとしての力は強くないが、オペラ映画として十分に見応えがあった。李香蘭が歌う映画は多いが、この映画ほどたっぷり聞かせるのはほかにないのでは。

1944年の映画だが、プロパガンダ的要素は少ない。満州事変が始まってハルピンに日本軍が入場して治安が安定し、「満州事変を契機として王道楽土へ」という字幕が流れるあたりくらい。この映画が当時の日本で公開されなかったのも頷ける。

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