『ハングルへの旅』を読みながら:その(2)
『ハングルへの旅』の最初のあたりで茨木のり子さんは書く。「「韓国語を習っています」とひとたび口にすると、ひとびとの間にたちどころに現れる反応は、判で押したように決まっている。/「また、どうしたわけで?」
これは彼女が習い始めた70年代半ばからこの本を書いた80年代半ばの現実だったと思う。フランス語を学んでいてもそういうことは言われない。確かにかつて、「冬ソナ」で韓国語を学ぶ女性が増える2000年代半ばまでは、その通りだった。私は80年代前半から無自覚にフランス語を学んでいたが。
「明治以降、東洋は切り捨てるのが国の方針であったわけだが、以後百年も経過して、尚ひとびとが唯々諾々とそれに従って、何の疑いも持たないというのは、思えば肌寒い話である」
彼女の場合は既に書いたように韓国系の仏像や磁器に惹かれたからという。その皮膚感覚的な美学がこの本には溢れている。最近は「隣の国のことばですもの」と言うことにしてるらしい。「もちろん、南も北も含めてのハングルである」。本の題名が『ハングルへの旅』なのは、そういうところにあるようだ。「朝鮮半島」というより、物理的に言語なのだ。
ハングルという言葉から感じるものと韓国の文化を一つながりのものとして捉えようとする視点がこの本にはある。だからハングルにはカタカナの読みが振ってあって、音を出すことができる。私は昨年2、3カ月ハングルを独学して挫折したが、それでも少しわかる。
日本語とハングルは共に中国語、つまり漢字の羅列を語源とする。「隣国は漢字を音(おん)で読み、日本は訓(くん)で読むとよく言われる」。「同じく漢字をとり入れながら、隣国と日本の漢字読みの違いにも呆然となる。/希望(ヒマン)、歓喜(ファーンヒ)、後悔(フーフェ)、少年(ソーニョン)、壮年(チャーンニョン)、老婆(ノーバ)」
「ごく稀に/要因(ヨウイン)、余裕(ヨユウ)、盗難(トウナン)、難民(ナンミン)、器具(キグ)、階段(ケエダン)/など、同一音の漢字に出会うとほっとし、やはり姉妹語の面もあるのだと、息がつける」
本に書かれているハングル文字は省略したが、同じ中国語からの派生と言っても、ほとんど違う。韓国をこの本では「隣国」と書いていることもいい。確かに一番近い、隣の国だ。韓国や朝鮮半島と書くと、妙に政治的になる。「隣国」という表現は、詩人らしく繊細だと思う。この本には、日本語は名詞が豊富で韓国語は擬音語が豊かなことが書かれている。それについては後日。
今は学生企画の映画祭の最中で会場の映画館にいることが多いが、暇を見つけては読み終えたこの本をめくり、こっそりハングルを口に出している。考えてみたら「中国を知る」映画祭だったが。
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