20年前はイタリア年だった:その(2)
2001年の「日本におけるイタリア年」は、1999年の1月頃にイタリア大使館から提案されたと記憶している。各新聞社の文化事業部の部長クラスを呼び出して、「お金を出すから企画を考えてくれ」というものだった。私は映画の企画を2本出したが、同僚はフェニーチェ歌劇場の初来日公演とかポンペイ展とかカラヴァッジョ展などを提案した。
当時は「とりあえず出してみよう」と言っていたが、そのすべてが2年後に実現したから考えてみたらすごい。「カラヴァッジョ展」はいつの間にかイタリア側で監修者が決まり、膨大な保険料はイタリアの保険会社ジェネラリが負担してくれたはず。
私が提案したのは、この数年の映画を集めた「イタリア映画新作映画祭」と過去の名作をイタリアの映画アーカイブから持ってくる「回顧上映」の2本だったが、2つともほぼ希望通りの形で実現した。前者は今も続く「イタリア映画祭」で、当初はその年だけの予定だった。
この2つの準備のために1999年の8月末に私はベネチア映画祭に行った。たぶん1992年に行ってから2度目ではなかったか。東京のイタリア文化会館のマルケッティ館長に相談すると、イタリアの映画製作者連盟=ANICAとルーチェ研究所の2つの機関を紹介された。それぞれにファックスを出してベネチアで会った。
ANICAは会長のフルヴィオ・ルチザーノ氏と会ったが、娯楽映画の大プロデューサーであまり話が合わなかった。ルーチェ研究所は現在はチネチッタと同じ組織になっているが、かつてはファシズム期にニュース映画を作り、戦後はドキュメンタリーや劇映画も製作していた。そこの国際部長のような女性と会ったが、私が映画を買うわけではないとわかると全く相手にされなかった。
それから2000年になって、私の仕事相手が決まったとイタリア年の実行委員会から連絡があった。新作映画祭はフィルミタリアFilmitaliaという新しい組織で、トップは国会議員のルチアーナ・カステッリーナという女性だった。回顧上映はチネテーカ・ナチオナーレの所長、アドリアーノ・アプラさん。
その年のGWにローマに行き、壮麗なファシズム期建築のファルネジナ宮にある外務省でアドリアーノ・アプラさんとフィルミタリアの女性事務局長と会い、打ち合わせ後に昼食を共にした。1時半過ぎから外務省所有の川べりのレストランで食事をして終わったのは3時半。アプラさんが誰かに携帯電話を借りて職場に電話をして「今日はもう戻らない」と言ったのを覚えている。
女性事務局長はその年のベネチアで『ペッピーノの百歩』が脚本賞などを取ったマルコ・トゥッリオ・ジョルダーナ監督の奥さんだったが、どうしても名前が出てこない。2019年のイタリア映画祭で東京でジョルダーナ監督に会った時は、別の若い女性と一緒だったが。この続きは後日書く。
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