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2021年1月12日 (火)

「眠り展」を見て

竹橋の東京国立近代美術館で2月23日まで開催の「眠り展:アートと生きること」を見た。2015年にそこで見た「No Museum, No Lifeーこれからの美術館事典」が抜群におもしろかったが、今回も同じく国立5館の所蔵品からなるテーマ展という。

正直に言うと「No Museum, No Life」に比べたらおもしろさはだいぶ劣った。あの展覧会はアートと関わる言葉をどんどん出して斬新な解釈で作品を見せるもので、あちこちに驚きがあった。今回は「眠り」というテーマで、「夢かうつつか」とか「生のかなしみ」とかいささか「文学的」な分類で作品を並べている。

正直に言うと、120点ほどの展示作品のうち、1/3くらいに「なんで眠りなの」と思った。例えば森村泰昌の《なにものかへのレクイエム》は、三島由紀夫の自衛隊での自殺前の演説を模したもので、写真とビデオの両方が展示されていた。これが「眠り」なのは、自衛隊員は誰も聞いておらずいわば眠っているからなのか、あるいはもうすぐ死ぬ三島は眠りにつくというのか。

第5章は「河原温 存在としての眠り」は河原温作品のみが並んでいる。有名な黒の白抜きの日付が入った作品数点に、「I Got Up」シリーズの奈良原一高氏宛の葉書。これは毎日「何時に起きた」とタイプで打って日付を入れて出すもの。それからI Am Still Arriveという電報数通。日付や「何時に起きた」や「まだ生きている」はある種の存在証明だから死とは結び付くから「眠り」になるのか。

河口龍夫のインスタレーションも作品としては相当に興味深いが、私は「眠り」は考えなかった。むしろ核時代とか環境破壊を想起した。荒川修作や堂本右美の絵画は、およそ「眠り」とは関係ないように見えた。

もちろん寝ている人物の絵はたくさんある。第一章にあるルーベンスの《眠る二人の子供》とか、各章の冒頭にあるゴヤの眠りをテーマにしたエッチングとか(しかし小さい)、一番最後の金明淑の《ミュボン》とか(これは出口の扉に大きな穴が開いていて外からも見えておもしろい)。

気に入ったのは、ゴヤのエッチングやルドンのリトグラフやエルンストのフロッタージュのような小さな作品。小さいと言えば、内藤礼の《死者のための枕》という消しゴムくらいの大きさの枕もいい。楢橋朝子の海に浮かんで水面を撮った写真も「眠り」は感じた。

ジャオ・チアエンの3面のビデオ・インスタレーションは、眠りながら時々起きて話す台湾在住のインドネシア女性たちを撮ったもの。彼女たちの疲れて眠る姿がよかった。これで思い浮かべたのは、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画『光りの墓』(2015)。「眠り病」で病院に寝ている男たちを撮った映画だから。彼はインスタレーション作品もあるから入れるべきだが、5館の所蔵にはないのだろう。

荘子の「胡蝶の夢」ではないが、アジアの眠りは何か別の要素がある気がする。そんなこんなをいろいろ考えたということは、展覧会がおもしろかったということかも。その後4階から2階までの常設展を駆け足で見たが、多くが「眠り」の作品に見えた。

常設を見るとその違いがわかるが、今回の「眠り展」は展示空間が凝っていた。本当に眠くなるようなグラフィックを使い、カーテンのような幕をあちこちに垂らしてある。「眠り」の雰囲気が展覧会全体に漂っていた。

 

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