半藤一利さんに一度だけ会った
先日、作家の半藤一利さんが90歳で亡くなられた。あの長身で明るくかくしゃくとしたお姿を、1度だけ間近に見たことがある。2017年12月の学生企画の映画祭「映画と天皇」の時で、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』(1967)の上映後に、原作者としてトークをしてもらった。
トークゲストを選ぶ会議をしていた時に、監督も主要な俳優も亡くなっているので、原作者の半藤さんの名前が学生から挙がった。映画では大宅壮一のクレジットだが、実際に書いたのは半藤さんで、最近の本はその表記に変わっている。
連絡先がわからないため、学生が講演会を見つけて出かけて行って、交渉したと思う。当時既に87歳だったので、自宅にタクシーを向けようと提案したが、歩いて来るとのことだった。当日、あの円山町の丘を背の高い半藤さんが黄土色のジャケット姿で、てくてくと上って現れたのを覚えている。
トークでは、本を書くまでの経緯を話した後に最後のあたりで当時の安倍政権を明確に批判したのを記憶している。それから学生がポスターと色紙にサインを求めると、ポスターにはサインしたが「色紙はどうも苦手でね」と苦笑いで断った。帰りはタクシーを用意したが、10分ほど遅れてもニコニコ微笑んで待っておられた。
考えてみたら、学生映画祭のゲストでは既に鬼籍に入られた方が何人かいる。2012年1月の映画祭「1968」では若松孝二監督にカメラマンの大津幸四郎さん、2014年12月の「ワーカーズ」では俳優の志賀廣太郎さん。新聞社を辞めた時にもう有名人に会うことはないと思ったが、意外なことに学生の映画祭で毎年10名近い方にほとんどが初めてお会いしている。
『実録 連合赤軍』の上映に来た若松孝二監督はおもしろかった。担当の女子学生が電話でさんざん怒られていたので、我々は戦々恐々としていた。確か上映後の10時頃からのトークで、9時頃到着とのことだったので、私は学生数名と近くでベトナム料理を食べていた。すると8時頃に劇場から「監督がいらしてます」と電話があった。学生2名と私は慌てて走って戻った。
若松監督は上機嫌で、1階カフェの外のテーブルでお酒も飲まずに2時間我々と話した。何の話だったか全く記憶にないが、とにかく寒かったのは覚えている。トーク後は学生みんなとの記念写真に応じ、元気に帰っていった。亡くなられたのは、それから1年もたっていなかった。若松監督のことを考えると、その時の学生たちを思い出す。
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