20年前はイタリア年だった:その(3)
イタリア年の準備の頃を思い出すと止まらくなったので、もう少し書く。2000年のベネチア映画祭では、前年と違って歓待を受けた。それは着いた翌日に、新作映画祭を担当する新設フィルミタリアのルチアーナ・カステッリーナ理事長との夕食会から始まった。
この国会議員の女性は、元新聞記者だったから、話が早かった。古典から現代までイタリア映画をよく知っており、日本映画への大きなリスペクトがあった。夕食は夜8時半から、エクセルシオール・ホテルのビーチに面したレストランだった。
当時は私もまだイタリアの習慣がよくわかっていなかったのだろう。8時半にホテルのロビーで会おうと言われて、夕食だと思わなかった。7時から船着き場近くの観光客向けのレストランで夕食を済ませて出かけた。会うと「さあ、おいしいものを食べよう」と言われて、無理をしてサラダとパスタを食べた記憶がある。
その後10時半からコンペのロベルタ・トッレ監督の『シュッド・サイド・ストーリー』の公式上映で、彼女の前作『死ぬほどターノ』をイタリア映画祭で上映しようと思っていたこともあり、招待席で一緒に見た。
「イタリア映画大回顧」の方はアドリアーノ・アプラ氏と18時にホテル・デ・バンで待ち合わせた。ヴィスコンティの『ベニスに死す』で有名なこのホテルは現在は閉鎖されているが、当時は普通に営業していた。私はそこに泊まったが、一泊4万円くらいでバカ高いわけではなかった。
ベネチア映画祭期間中はだいたい一度くらい大雨が降る。それがその日で5時半頃から嵐になった。私は嵐の中をタクシーを見つけて走り、6時前にホテルに着いたが、アプラさんは雨がやんで7時くらいに現れた。ホテルのカフェで話し始めたらカステッリーナさんがやってきて、今日はイタリアの映連の夕食会だからどうぞと言われて参加することに。
「ヴィスコンティの間」での豪勢なビュッフェだったが、アプラさんは自分が上映したい映画について1本1本講義を始めた。結局、その「講義」が終わった時には夕食はほとんど残っていなかった。その後、彼の若い奥さんを交えて、ホテルの庭のバーで食後酒を飲んだ。アコーディオン弾きが現れて、『ベニスに死す』の一場面のようだった。
そして翌年のベネチア映画祭は、「イタリア映画祭」の大成功後ということもあり、また歓待された。その時は「イタリア映画大回顧」の取材のために「朝日」の石飛徳樹記者と同行したが、その時が「初めまして」だった。このあたりについてはまた書く。
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