20年前はイタリア年だった:その(4)
イタリア年で企画した2本の映画祭のうち「イタリア映画大回顧」は、当時のフィルムセンターの大場主幹と岡島研究員にイタリア映画研究家の柳沢一博氏、字幕翻訳家の吉岡芳子氏、それに私を加えた形で委員会を作って作品を選んだ。しかし「イタリア映画祭」は朝日ホールでの開催なので、自分で作品を選ぶ必要があった。
私はフランス映画ならばある程度新作に通じていたが、イタリア映画のことは全く知らなかった。そこで頼ったのが、イタリアの現代文学や映画に詳しい岡本太郎さんだった。彼と私の2人で選びたいとイタリア側に恐る恐る聞くと、それで問題ないと言う。イタリアから選ぶ人間を出すと、イタリアの映画関係者はみんな日本に行きたいから、コネや賄賂が幅を利かすのでよくないという極めてイタリア的な発想だった。
私は彼と話し合いながら、2001年に開くので「90年代傑作選」とした。そしてもう一つの副題を私の考えで「イタリア旅行」とした。これは映画通にはロッセリーニの傑作の題名だし、普通の観客には映画を通じてイタリアを旅行しましょうという呼びかけだった。
とにかく大勢の人に見て欲しかったので、テレビ朝日にも「主催」に入ってもらい、地方に巡回するためにエース・ジャパン(その映画部門が今のコミュニティシネマ・センター)にも「協力」を頼んだ。また宣伝もきちんとやろうと、和氣道子さんがいる樂舎に委託した。
多くの監督や俳優たちが来日しての記者会見はイタリア大使館で、北野武さんが同席して行われた。なぜ北野武なのかと言えば、テレ朝から有名な日本人を出せばテレビで取り上げると言われて、ヴェネチア映画祭と縁の深い彼はどうかとダメ元で依頼した。テレ朝ほか2、3のテレビ局に、スポーツ紙がたくさん取り上げてくれた。
結果としては、東京の1週間で1万人くらいが見たと思う。35㎜プリントに字幕を打ち込み、地方は仙台、高知、名古屋、大阪、広島、福岡、京都、上越、前橋と巡回することができた。さてこれで終わったと思っていたら、イタリア年は2002年春まで続くのでもう1回やって欲しいと言われた。それが今も続く「イタリア映画祭」の始まりだった。
私自身もイタリア映画祭を大いに楽しんだ。あの頃はみんなで夕食後、自宅に誘って盛り上がったものだ。今でもその頃に来た監督にヴェネチア映画祭などで会うと、よく思い出話に浸る。よく会うのは、監督だとマリオ・マルトーネとマルコ・トゥリオ・ジョルダーナあたりだろうか。もはや全くその活動を聞かなくなった監督も多い。
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