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2021年2月15日 (月)

『どん底作家の人生に幸あれ』の配役に驚く

19世紀イギリスの作家、チャールズ・ディケンズの自伝的小説『デイヴィッド・コパフィールド』は、サイレント時代からこれまで何度も映画化されている。実は原作小説は読んでいないけれど、映画は何本か見たのであらすじはわかる。

ところが、今回の映画は何とインド系のデヴ・パテルが主人公のデイヴィッドを演じている。小説家となった彼が、講演会で自分の生涯を語り始める。これはあえてインド系の家族にしたのかと思いきや、母は全くの白人。それからアフリカ系やアジア系も自由に交えながら、多くの変人たちによる実に賑やかな物語が展開する。

賑やかなのは人種ばかりではない。語りも撮影もデーヴィッドの主観のように進む。そのうえ、登場人物が多く、入り組んだ人間関係なので途中まで誰が誰かよくわからないという摩訶不思議な映画である。

確かなのは、めっぽう明るいデーヴィッドが不幸の連続ながら少しずつステップアップして、作家としての人生観や文章術を身につけてゆくという展開だ。最初に成功したデーヴィッドが出てくるので、何が起こっても安心して見ていられる。

物語は母とメイドの3人で仲良く暮らしていたが、母と再婚した男はデーヴィッドをいじめるというところから始まる。売り飛ばされた工場で何とか成長するが、母の死をきっかけに工場を飛び出して資産家の叔母(ティルダ・スウィントン!)の助けで、上流階級向けの大学に通い始める。卒業後に法律事務所で働き始め、彼女もできるが、過去の亡霊が付きまとう。

全体を見終わると、イギリス的なクールなユーモアで、1850年頃を舞台にしながら実は現代社会を描く群像劇なのだと気づく。この巧みな語りは『スターリンの葬送協奏曲』を作ったアーマンド・イアヌッチ監督ならではで、デヴ・パテルやティルダ・スウィントンを始めとしてベン・ウィショー、ピーター・キャパルディ、ヒュー・ローリーなどの英国出身の俳優たちも監督のユーモアとぴったり呼応する。

この群像劇のとりとめないようで実はすごい感じは、ロバート・アルトマンにも似ているかもしれない。ある程度映画を見ている人ならきっと楽しめるだろう。

 

 

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