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2021年3月10日 (水)

『ヤクザと家族』の見せるもの

藤井道人監督の『ヤクザと家族』を劇場で見た。同じように現代のヤクザの生きづらさを描いた西川美和監督の『すばらしき世界』を見たばかりなので、比べると興味深かった。『すばらしき世界』はやくざの出所後の世界を描くが、『ヤクザと家族』はあるやくざのこの20年の生き方を3つの時期に分けて見せる。

1999年、父の葬式に現れた19歳の山本(綾野剛)は茶髪でやりたい放題だった。彼は偶然に柴咲組組長の柴咲(舘ひろし)と出会い、子分になる。2005年、山本は柴崎組の一員として活躍し、ホステスの由香(尾野真千子)と知り合う。しかし敵対する侠葉会に仲間を殺された山本は、その復讐を遂げて刑務所に入る。2019年、出獄した山本は由香と会い、世界が変わったことを知る。

やくざが時代と共に変化を強いられ、新興勢力のやくざが時代に応じた生き残りをめざすなかで昔ながらのやくざが滅びてゆく、というのはやくざ映画の昔からのパターン。この映画はそれを踏みながら、あくまで山本の内面に焦点を当てる。その意味ではどんどん追い詰められてゆく彼の心情を追いかけるのは成功している。彼に感情移入できたら、その親分や恋人や仲間に対する思いと世の中の変化の齟齬が直球で伝わってくるだろう。

しかし私にはやくざ映画として、ほかの人物があまり生きていないし、やくざがどんどん生きづらくなっていく様子が具体的に場面として出ていないように思った。若頭の北村有起哉は健闘しているがその人間像が見えないし、舘ひろしに至っては親分の本当の怖さや情の深さがあまり感じられない。

もっと弱いのは女性で、尾野真千子演じる由香がなぜ山本を好きになるのかがわからない。山本が由香を好きになるのさえ、手に刺さったガラスを取ってあげただけとは弱い。夫を殺されて食堂を営む愛子(寺島しのぶ)は息子の行方も含めてこの映画の鍵となるはずなのに、人間らしい陰影が出ていない。

終盤に山本が由香宛ての電話の留守電に声を吹き込む。その声に合わせて山本を取り巻くさまざまな状況が走馬灯のようにモンタージュで写る。まさに山本から見た世界がいささか感傷的に見せられる場面だが、映画全体がこのような「情緒」に満ちている。

この監督の前作『新聞記者』は原作があったし、演出ではいささか情緒的な部分や象徴的な表現が気になったが、脚本に監督のほか2人が加わっているからか物語に広がりがあった。しかし、監督が単独で脚本を書いた今回の映画は主観的な表現が中心となって時代の変遷を見せる具体的な細部が弱い分、孤独と家族愛が際立った。若い人にそれなりにウケていると聞いたが、それが理由かもしれない。

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