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2021年3月 7日 (日)

20年前はイタリア年だった:その(5)

2001年のイタリア年では今も続く「イタリア映画祭」を始めたが、その年だけ今の国立映画アーカイヴで「イタリア映画大回顧」を企画した。55本の古今のイタリア映画を上映したが、朝日新聞で「特集」記事を書いてもらうために文化部の記者を派遣することになった。

新聞社主催の展覧会は企画するのは文化事業部だが、記事は文化部記者が書く。さすがに企画者が書いたのではまずいからだ。イタリア側が字幕費用を持ってくれて予算に余裕があったので、映画祭でも記者を派遣してみようということになった。イタリアの映画関係者に会いやすいベネチア映画祭の期間に私と同行することにした。

文化事業部は誰に行って欲しい、と指名することはできない。あくまで文化部が選ぶ。その時に忽然と現れたのが名古屋の文化部にいた石飛徳樹記者だった。名古屋から送るとは、文化部はベネチア映画祭には興味がないんだなと思った。考えてみたら当時はベネチアには記者を送っていなかった。

石飛さんと会ったのはその時が初めて。たぶん東京で一度会ってから、映画祭後半にベネチアに行った。当時の仕事相手のフィルミタリア(イタリア映画海外普及協会)に頼んで予約してくれたのが、リド島の端っこにある「ホテル・ボン・ペッシェ」だった。ボン・ペッシェはイタリア語で「よい魚」。船着き場から映画祭と反対方向に歩いて30分近いところにそのホテルはあった。

映画祭まで歩いたら45分くらいなので、2人とも自転車を借りた。宿に着くと自転車は既にホテルに用意してあった。そこから映画祭会場に行き、19:30の回が終わると2人でイタリア料理を食べてワインをがぶ飲みした。ホテルは海の前で海岸に沿って1本道があり、2人で酔っ払って自転車でこぐと何度も海に落ちそうになった。途中から映画を見るより飲むことが中心になった。石飛さんは受賞作品を1本も見ていなかったが、それでも映画祭報告記事を書いた。

期間中にベルナルド・ベルトルッチ監督にインタビューした。それからローマに行ってタヴィアーニ兄弟にも話を聞いた。ローマで「イタリア映画大回顧」の作品を借りるチネテーカ・ナチオナーレのリノ・ミチケ理事長にインタビューしていた時、秘書が飛び込んできてテレビを付けた。9.11の映像で、飛行機がワールドトレードセンターに飛び込んでいた。ミチケ氏はとっさに自宅に電話して「すべての株を売れ」と奥さんに指示を出していた(通訳の長谷川満さんの話)。

ホテルは騒然としていたが、実はそのホテルはイタリア側が手配したホテルの部屋ががあまりに小さくてひどくて(壁に面した小さな窓が上の方に一つで独房に近い)、移ったばかりだった。部屋も風呂も大きくて石飛さんは「鼻血が出そう」と言っていた。その夜、またワインを飲んだ後、電話回線でアサヒコムのニュースを見ながら何とも不安だったのを昨日のように思い出す。20年たったが、あの名古屋の石飛さんは今や映画担当の編集委員だ。

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