大学教師の春の憂鬱
大学教師の春は憂鬱だ。どうも自分が機械の歯車になったような気がする。顔を見慣れた4年生はいなくなり、すぐに1年生がやってくる。もちろん会社にも定年もあれば新入社員の入社もあるが、大学のように一挙に1/4が入れ代わることはない。
まさに「ところてん式」に4年たつと出てゆき、一方で高校生のような新入生が大勢目を輝かせてやってくる。教師はその動きに手を出せず、黙って見ているだけだ。必修科目で成績が悪くても、卒業が掛かっていると担当の先生から何とかと頼み込まれる。
4年生にとって卒業式は友人や先生と会う最後に機会だし、目の前に明るい未来が待っているから盛り上がるのはよくわかる。教え始めの頃はこちらも気分が高揚したが、10年を超すとどこか冷めている。写真を撮ったりするが、「毎年のことだし」と思ってしまう。何か自分が「先生」を演じているような気分になる。
そうして新入生が来る。当たり前だが、毎年一からガイダンスをして同じような質問に答える。できるだけ希望を与えるようにとは思う。そんな感じで歯車が一つ回り、相手だけ新しくなる。ポイントは教師は定年以外はほぼ変わらないこと。普通の会社や役所だと毎年必ず異動があるが、大学にはまずない。同じポスト、同じ研究室に何十年もいる。
前にここに書いたが、小津安二郎が東宝で撮った『小早川家の秋』(1961)では火葬場に上がる煙を見て、笠智衆演じる農夫が「死んでも死んでもせんぐりせんぐり生まれてきよる」というシーンがある。大学生は毎年まさに「せんぐりせんぐり」やってくる。
実は私自身は大学でほとんど何か勉強した気がしない。フランス語くらいか。フランス人のブーヴィエ先生の授業は役に立った。あとは自分で本を読み、映画を見て友人と語り合った。そしてブーヴィエ先生に勧められるままに留学の奨学金試験を受けてフランスに行った。卒業後一度も出身大学に行っていないし、東京に時々来るブーヴィエ先生以外は先生たちとも会っていない。
要するに大学という場があって先生や同級生や先輩がいて、図書館や書店や映画館やバイト先があれば、あとは学生は自ら学ぶ。教師が何を教えようと、好きなものを吸収してゆく。自分の興味あるものを見つけて、いつの間にか仕事に就いている。
あえていえば、教師は学生が関心を持つさまざまなきっかけや入口を提供するくらいだろう。春はそんな無力感でちょっと憂鬱になる。
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