原正人さんと山崎剛太郎さんが亡くなった
映画プロデューサーの原正人さんが3月17日に89歳で亡くなっていた。朝日の訃報で驚いたのは、彼の本名が「山田良雄」だったこと。確かに原正人に比べたら、いい人そうでちょっと凡庸かもしれない。フットワークが軽く、あの明るさで笑いを振りまく様子には原正人がぴったりだ。
原さんはきちんとお話をしたことがない。90年代に2、3度フランス大使館の夕食会や昼食会で同じテーブルに座ったくらい。彼は『戦場のメリークリスマス』や『乱』などの話題の国際合作の日本側プロデューサーとして、フランス人には人気があった。私は新聞社でフランス関係の美術展や映画祭をやっていたのでそういう席に呼ばれた。
驚いたのは、彼はお酒はあまり強くなく、フランス語はおろか英語もあまり達者ではなかったこと。横にいつも仏語が堪能な吉田佳代さんがいて、彼女は食べて飲みながら通訳も完璧にこなしていた。原さんは高級なスーツに胸にポケットチーフを入れて笑顔を絶やさず、相手が美術関係者でも誰とでも気さくに話していていつも会話の中心にいた。
フランス語を話すことに懸命だった私は大いに反省をした。ああいう落ち着いた大人になりたいと思ったものだ。大学に移ってからもパーティで2、3度すれ違った。私のことは覚えておられたかわからないが「もちろん覚えてますよ」と明るく答えてくれた。その時は既に酸素呼吸器を肩から掛けておられたが、「一度大学で講演をしてください」と言うと「行きます!」と答えてくれた。
その後秘書の方からメールまでいただいたが、タイミングが合わず、来てもらうことがなく終わった。私はどのようにして『乱』の借金を返されたのか、『エマニエル夫人』の配給や『失楽園』の製作などのエロ路線はどこから出てきたのかなど聞きたいことがたくさんあったので、今思うと残念でしかたがない。
山崎剛太郎さんは2月12日に103歳で亡くなられた。学生時代、『ラ・ブーム』や『ディーバ』などフランス映画と言えば彼が字幕を付けていた。既に亡くなられた寺尾次郎さんは弟子筋だが、寺尾さんが活躍するまではブレッソンやロメールなどアート系も山崎さんだった。フランス映画社のフランス映画はほぼ山崎さんだったのでは。
一度だけご自宅に伺って3時間ほど話を聞いたことがある。まず強そうなお名前に比べて、小柄でずいぶん気さくな方で拍子抜けした。95歳だったが、帰りに駅まで送ってくれた。目が少し悪いが知っている道だから大丈夫とのこと。
目的は、フランス人で日本映画をフランスに広めるのに貢献したマルセル・ジュグラリスの話を聞くことだった。彼はジュグラリスと一緒にフランスの雑誌の日本映画特集に協力し、カンヌに出す『東京オリンピック』の字幕を作ったことなどを語ってくれた。その後年賀状を送ると本人の手書きの返事が来た。
お二人とも親しかったわけではないが、しっかりと私の記憶に残っている。
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