岩崎昶について考える:その(2)
先日、岩崎昶(1903-1981)について書いたら、映画評論家の秦早穂子さんからメールが来た。「岩崎さんの記事、懐かしく拝読しました」という。私自身は会ったことはなかったが、その名前は特別な存在として大学院生の時に覚えた。今思うとその時にはもう亡くなっておられたが。
秦さんは彼について「言葉をかけるのもはばかられ、いつもお辞儀するだけ。地下鉄でも、いつも、ひとりで、隅に立っておいででした。静かな方でした。遠くから、眺めているだけでした」とまるで憧れの人のように書いていた。
秦さんより若い世代で彼について書いているのは、評論家の川本三郎氏である。彼は2003年に出た『映画は救えるか 岩崎昶遺稿集』に序文を寄せている。それは「知的で端正な紳士だった。いまや死語となった「英国紳士」という言葉を思わせた。学究肌の書斎派という印象だった」に始まる。
川本氏は1971年、「朝日ジャーナル」の記者として会う。「岩崎さんは、月に一、二度、試写を見に銀座に出た帰りに、ふらりと編集部に立ち寄る。/そしてゆっくりとソファに座ると、イタリアやフランスの映画雑誌に目を通し、そこからおもしろい話を取り出してコラムを執筆される。その姿が何とも素晴らしく、他の編集部の若い女性記者など「素敵ねえ、あの方どなた」と聞きに来たほどだった」
川本氏は岩波ホールの故・高野悦子さんの言葉として「お書きになるものが立派だったし、それになにしろ超弩級の美男子でしたから。昔から映画業界三大美男というと必ず名前が挙げられたんですよ」。ほかの美男2人は誰か気になるが、秦さんも朝日の女性記者も高野さんもみんな「憧れの人」だったことになる。
先日、ひょんなことから岩崎昶の息子さんと会う機会があった。長年ある私大で仏文学を教えておられた方だった。岩崎昶は東大独文科卒で戦前からドイツ語の文献を使って評論をしていたが、フランス語やイタリア語の雑誌も読むことができたのかと聞いてみた。すると「いや、フランス人と話しているのを横で聞くと相当怪しかったです」
しかし岩崎昶は「朝日ジャーナル」でフランス人であるジャック・シクリエのベルイマン論の抄訳を載せたことがあった。息子さんが読んで原文と比べるとほぼ問題なかったという。「父はこの文章は何を言いたいかを考えたら、だいたいわかるもんだと言っていました」
息子さんからは、岩崎昶は清水宏監督と仲良くて彼から毎年送られてくる松茸が楽しみだったことや、李香蘭がよく夜に訪ねてきて挨拶だけして帰っていったことなどいろいろ聞くことができた。彼の戦後の活動については後日書く。
そういえば、字幕翻訳家の山崎剛太郎さんと映画プロデューサーの原正人さんが亡くなった。少しだけ面識があるので彼らについても書きたい。
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